【育将・今西和男】のちの日本代表監督ハンス・オフトを招聘した男 (3ページ目)
13年間、現場から離れていたとは言え、日本サッカーそのものはウオッチし続けていた。そんな今西が初めて見るモダンなスタイルをヤマハは構築していた。
ハンス・オフトという名前を会社に出した。元々、今西はオフトの存在を早い段階から掴んでいた。教育大の1年先輩で清水東の監督をしていた勝沢要から、高校選抜を率いてヨーロッパ遠征をした際にオランダ・ユースの優秀な指導者に世話になったという話を聞いていた。それがオフトであった。北米マツダの副社長を務めて海外経験の豊富な小澤も、すぐに賛成してくれた。
「これからいい選手をたくさん取ることはできない。それなら監督に賭けて、組織で勝っていこう」
今西は1984年の1月にベルギーに飛び、マツダのブリュッセル支社でオフトと向き合った。オフトが暮らすオランダのザイストからは、車で1時間半の距離であった。4月の開幕に間に合わせるためには、もう決めてしまわなくてはならない。条件も預かってきた。
オフトとは虚心坦懐(きょしんたんかい)に話し合った。
――私はこれまで選手、指導者としては大きな仕事をして来られなかった、だから、あなたの力が必要と考えてやって来た。ヤマハでいくらもらっていたのか、今それに対して、マツダが出せるのはこれがマックスである。実質的に、あなたにはプロの監督として現場を任せるが、チームのグランドデザインは、私の担当なので、選手採用については私も権限がある……。
オフトもまたギラギラした目で、自らの出自から情熱的に語った。
――自分の父親はアフリカ系の黒人で移民としてオランダに来た、なぜならば、オランダがヨーロッパでは比較的差別が少ないからだ、自分はいろいろなものと闘いながら生きてきた。日本のサッカーにはディシプリン(規律)が、まだ足らないと思う。
腹を割った話し合いは実を結び、のちに日本代表監督に就任するオフトは、推定約1000万円の年俸でマツダの指揮官として来日することが決まった。
(つづく)
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