中田英寿不在の2000年アジアカップ トルシエが回顧する優勝した日本代表の長所とは (3ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

「我々に運があったのも確かだった。運もまたサッカーのひとつの要素だ。PKを献上するかどうかなどわからないことだし、しかもそれが外れることになるとは......。

 しかしその結果、日本は試合を続けることができ、自分たちを解放するゴールをあげることができた」

 決勝から得たものは、それまでの試合以上に大きかったとトルシエは言う。

「難しかったのは、我々が勝利を絶対的に求めていたことだった。攻め続けるか、ゴールを固めるかの決断を迫られる試合の終盤は特に難しい。そうしたシナリオを経験することでチームは成長する。

 勝利から得られるものは大きい。そこには、悩み抜くこと、耐え抜くことがあるからだ。そして、強い気持ちを最後まで持ち続け、それを表現し続けながら(選手も、チームも)成長していく。

 運を味方にすることもそうだ。チームは勝利のみによって作られるのではない。挑戦すること、困難に直面することで形作られる。そうした経験を経た末に、我々は優勝した。日本は優勝に値するチームだった」

 日本には別のプレッシャーものしかかっていた。

「忘れてならないのは、我々はW杯に向けての準備の段階にあったことだ。日本国民やサッカー協会、メディアの期待を背負っていた。同時にAFCの期待も双肩にのしかかっていた。日本はW杯の開催国であり、アジアを代表して大会に臨む。そうした責任の重さを感じていた。W杯のチームを構築すべき立場の私は特にそうだった。

 アジアカップ制覇はW杯のために避けて通れない目標で、チーム構築のためにも絶対的に必要なプロセスだった。優勝は絶対条件で、勝つことだけが我々の目標だった。実際に優勝して、日本はW杯に向けて進むための、さらなる自信を得ることができた」

 こうして2000年アジアカップは、トルシエ自身にとっても忘れならない思い出となった。

「私たちはアジアの頂点に到達した。そのうえ、ワールドユースで準優勝、シドニー五輪も準々決勝に進んだ。2001年コンフェデレーションズカップでも決勝に到達した。

 それらは仕事の成果であり、ラボラトリーの成果だった。プレー哲学から導き出された結果でもあった。選手たちが強い決意のもと、私の哲学をピッチ上で体現した。

 アジアカップは私にとってひとつのトロフィーだが、最高のトロフィーのひとつだ。監督として、私がキャリアのなかで成し遂げた最高の偉業だ」

(文中敬称略/おわり)

フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。

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