元広島のエース川口和久64歳は高木豊への故意死球を懐かしむ〜農業に励む今の夢は「漁師」 (2ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

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── ルーキーイヤーとは違って、ファームでみっちり鍛えたプロ2年目ということで、「やっていけそうだ」という手応えはありましたか?

川口 ファームでは徹底的に走っていたので体力面での不安はなかったです。ただ、久しぶりの一軍だったので「どうなるかな?」という思いはありました。ファームでは先発で7〜8勝はしていたと思うんですけど、一軍ではリリーフ要員でした。でも、福士敬章さんがぎっくり腰で登板回避となって、いきなり先発登板の機会がめぐってきたんです。

【団結力で築いた投手王国】

── プロ初先発となったのは、1982年7月15日、横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)14回戦でした。

川口 福士さんは鳥取西高校出身で、鳥取の先輩なんですけど、その前のジャイアンツ戦でバント処理をした際にぎっくり腰になってそのまま動けなくなったんです。で、先発陣が手薄になったことで、急遽、僕に出番が回ってくることになった。でもこの日は、調子はよかったですね。6回まで投げて1失点。その後は大野豊さんが抑えて初先発初勝利。この年はその後も出番をもらえて、勝ち星は4勝5敗だったけど、防御率は1.94ということで、次の年からは先発ローテーションに入れてもらうようになりました。

── この当時は、エースの北別府学さんやベテランの池谷公二郎さんを筆頭に、先ほど名前の出た福士さん、大野さんもいれば、山根和夫さんも活躍していました。さらに1歳下の津田恒美さんも売り出し中でした。

川口 津田は本当に爽やかな好青年でしたね。けれんみのない性格で、お酒が好きで、酔うとさらに陽気になって女の子とチークダンスをしてね。当時のカープ投手陣はライバル関係というよりは、みんながすごく団結力のある関係でした。北別府さんがいて、大野さん、山根さんがいて、そこに金石昭人、長冨浩志、そして僕ら若手がいてみんな団結していて、それを称して「投手王国」と言われていましたね。

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