八重樫幸雄が振り返る「師匠」中西太 若松勉らを育てた柔軟な指導から、オープンスタンスが生まれた (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

【「オレの打撃理論の一番の理解者はお前だからな」】

 中西さんは84年のシーズン途中にヤクルトを去りました。でも、僕はその後も中西さんと一緒に作り上げたオープンスタンスを磨き続けました。その結果、翌85年には、プロ16年目で初めて打率3割を超える.304を記録しました。僕にとって、中西さんは本当の恩人です。

 僕は93年シーズンを最後に現役を引退し、指導者となりましたが、その後も折に触れて中西さんとの交流は続きました。そして、中西さんはユニファームを脱いでからも、しばしば神宮球場に顔を出して、若手選手たちを熱心に指導してくれました。

 野村克也監督時代を支えた、宮本慎也や真中満、その後の岩村明憲、青木宣親など、当時の若手選手たちはみな中西さんからさまざまな指導を受けているはずです。才能あふれる伸び盛りの若者を見ると、指導者としての血が騒ぐのでしょう。当時、若松さんは監督となり、僕はコーチとなっていましたが、練習場に中西さんが顔を出してくれると、とても嬉しく、懐かしく、自然にホッとした感覚に包まれました。

 こうして、「中西太の教え」は、時代を超えて現在まで続いています。2008年に、僕はユニフォームを脱ぎました。この時、中西さんから「オレの打撃理論の一番の理解者はお前だからな」と言ってもらったことは今でも忘れられません。それが、その後のスカウト活動、そしてアマチュア指導の際の自信になりました。

 コロナ禍のために、直接お会いする機会がなかったのはとても残念ですが、この期間もお電話でやり取りできたことは不幸中の幸いだったかもしれません。現在も球界には、中西さんの指導を受けた選手、指導者がたくさんいます。僕もまたそのひとりであることを自負しています。中西さんの教えを、後世に伝える役割が、僕たちには残されているのだと、あらためて肝に銘じています。

 中西さん、いつになるかはわかりませんが、僕も天国に行った時に、またご一緒して野球談議に花を咲かせたいと思います。どうぞ、安らかにお眠りください。本当にありがとうございました。

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