大洋の監督になった古葉竹識に、高木豊が「残念」と感じた理由。外野へのコンバートで得たものも明かした

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Kyodo News

野球人生を変えた名将の言動(4)
高木豊が語る古葉竹識 前編

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 指導者との出会いが、アスリートの競技人生を大きく変える。長らく大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)の主力として、盗塁王や8度の打率3割超えなど、走攻守の三拍子が揃った選手として活躍した高木豊氏は、大洋の監督を1987年から3年間務めた古葉竹識氏にどんな思いを抱いていたのか。

 高木氏が語る、広島の指揮を執っていた時代に伝え聞いていた監督像とは「違っていた」こと、古葉監督時代に培ったものとは。

1989年10月、大洋の監督を退任する古葉(左)に花束を渡した高木(右)1989年10月、大洋の監督を退任する古葉(左)に花束を渡した高木(右)この記事に関連する写真を見る***

――古葉さんは、広島で監督を務めた11年間でリーグ優勝4度、日本一3度という実績を引っさげ、1987年に大洋の監督に就任しました。それまでの古葉さんにどんな印象がありましたか?

高木豊(以下:高木) 厳しい監督であり、そういうことを重んじている方という印象を持っていました。ただ、事前に言っておきたいのは、「僕が敵(広島)として対峙して感じたり、伝え聞いていた古葉さん」と、「大洋に来てからの古葉さん」は違っていたということです。

――「感じたり、伝え聞いていた古葉さん」とは?

高木 当時、大洋は監督がコロコロ変わっていましたが、古葉さんは広島で長く監督を務められていて、何度も優勝に導くなど結果も出していましたし、"名将"というイメージがありました。だから、古葉さんが大洋の監督になると知った時は期待しましたよ。僕も優勝したかったので。

 当時、広島にいた高橋慶彦さんと仲がよかったので、古葉さんがどういう人なのかを聞いたら、「めちゃくちゃ厳しいぞ」と言われたんです。あと、鉄拳制裁もあったとか、顔はニコニコしているけど下では蹴りを食らわせるとか......そういう話を聞いていたんです。

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