「この先、野球を続けるのはしんどいな」と考えていた西田陸浮がなぜホワイトソックスから11巡目でドラフト指名されるまでに至ったのか (2ページ目)

  • 白鳥純一●取材・文text by Shiratori Junichi

――西田選手がアメリカ留学を考えるようになったのはいつ頃ですか?

西田:高校3年生の頃、夏の甲子園に向けて宮城県予選が始まる前だったかなと思います。最初は留学どころか日本の大学で野球を続けるつもりもなかったんですけど、「もしアメリカに行けるのなら野球を続けてもいいかな」と軽い気持ちで父に話したら、アスリートブランドさんのセレクションを見つけてきてくれたんです。

 僕の夢は「経営者になること」だったので、「まずはアメリカに留学して、その後は経営者になったら?」という父の言葉に後押しされて、留学を考えるようになりました。

――アスリートブランドには、選手のほうからの問い合わせが多いんですか?

根本:直接声をかけてくれるケースが大半ですが、中には、野球留学の経験者に成功する可能性のありそうな選手をピックアップしてもらって、こちらからオファーさせていただくケースもあります。

――留学を考える前、西田選手は高校卒業後の進路をどのように考えていましたか?

西田:先ほども言いましたが、「この先、野球を続けるのはしんどいな」と思っていました。東北高校では経験せずに済みましたし、もう昔の話なのかもしれませんが、日本の大学の野球部の中には後輩が先輩の分まで洗濯をするところもあると聞いて。「大学生にもなって、なんでそんなことをしないといけないんだ?」と疑問に感じましたし、そんな環境では続けられないだろうと思ったんです。

――東北高校を選んだのは、そのようなチームカラーに惹かれたからなのでしょうか?

西田:いいえ、全然そんなことはないです。実は中学の時にも「野球を辞めようかな」と思っていたんですけど、僕は成績がよくなかったので「野球をしないと高校に行けない」ことがわかって(苦笑)。いろいろな人に「ダルビッシュ有の出身校やぞ!」と後押しされて進学を決めたんですけど、その時には東北高校が宮城県にあることさえも知りませんでした(笑)。僕が所属していた履正社ボーイズ(現・北大阪ボーイズ)のバッテリーも東北高校への入学が決まっていたんですが、僕はその"バーター"のような感じです。

 当時、ダルビッシュ投手のことはもちろん知っていましたけど、野球は"やる"ほうであまり"見る"機会はなかったので、憧れの野球選手は特にいなかったような気がします。格闘技のほうが好きで、ストリートファイターのキンボ・スライス選手とかを応援していました。

――甲子園には出場できませんでしたが、東北高校での3年間を振り返っていかがですか?

西田:毎日のように走り込みをするので、練習は本当にしんどかったです。でも、幸運なことにアメリカでは走り込みの練習はメニューに入ってなくて(笑)。甲子園には行けませんでしたが、高校で頑張った3年間はその後の人生の支えになったし、野球に対する考え方の基盤を作ることもできました。

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