箱根駅伝で駒澤大・藤田敦史監督が「三本柱」を1区から配置した理由 感じていた不安とは (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【5区を軸に考えたゆえの往路オーダー】

――鈴木選手が追う展開を避けたかったことも大きな要素だったと思いますが、全体的には5区を中心に往路の戦い方を考えていたことがわかります。

「そうですね、5区を軸に考えていました。金子は結果的には区間3番で走っているけど、今年の5区は68分台の争いになる可能性も秘めていました。彼も22年に走った時は1時間11分だったから、もしそのタイムならそこで3分やられる計算になる。そうなった時にどう対応するかを考えると不安もありました。山川も11月に練習を中断したとはいえ、状態は上がってきていたので、彼を復路という選択肢は出てこなかった。それに篠原も単独走よりも集団走や下り基調のほうが本領発揮できるので、タイプ的には1区か3区。そうなると3区は間違いなく単独走が得意な圭汰になるので、適材適所を考えたら、やっぱり篠原1区となりました」

――5区を金子選手と決めた時点で、自信を持って往路に起用する選手となると、山川選手を含めた4人しかいなかったということですね。

「そうなんです、そこの選手層の薄さですね。ただ、それは、出雲、全日本と戦っていく中でも、すごく感じていました。出雲も勝ちましたけど、ひとりでも主力が故障していたら厳しかったですし、全日本も同様でしたけど、赤津勇進(4年)、花尾恭輔(4年)など戻ってきた選手たちがいたのでまだ戦えたという印象です。ただ、箱根は『ひとりでも欠けたら厳しいな』というのは頭の片隅にはありました。それで11月に入って山川と伊藤がちょっと練習できなくなった時に、"これはちょっとまずいな"という感じで......。

 幸い11月下旬ぐらいで目処が立ってきて練習も始められたので、「あのふたりなら1カ月あればなんとか戻せるかな」と見ていたのですが、やっぱり付け焼き刃でやっていた部分もあった。山川は寒いのが苦手だったので、そういう条件面でも味方しなかったですね。4区は雨や寒い中でのレースとなったので、結局寒くて動かずに突っ込めずに、気持ちばかり焦ってしまってどんどん差が開いた感じでした。いろんな面で味方してくれなかったなという感じはします」

――2区の鈴木選手も3区の佐藤選手も、最初の5㎞通過は14分0秒くらいでしたが、もう少し速く入るという考えはなかったのですか。

「それは想定どおりですね。2区にしても3区にしても、最初に突っ込みすぎると2区なら最後の3kmで止まったり、3区なら海岸出てからちょっと止まったりする可能性があります。そこは大八木(弘明・総監督)からも『あまり突っ込み過ぎるな』とも言われていたので。ただ、青学大があまりにもよかったですね」

――青学大の黒田朝日選手は2区の序盤から集団などを使ってレースを進めていたと思えば最後に一気にペースを上げ、気づいたら駒大の鈴木選手との差を13秒も詰めていました。

「あれは本当にうまかったなと思いますね。黒田選手は初めての2区なのにそんなに突っ込まずに来て、ラスト3kmで勝負かけてきたじゃないですか。そこからみるみる詰まってきた感じなので、あれはちょっと、してやられたなっていう感じです。だから振り返ってみると、選手層しかり、戦術しかり、区間配置しかり、いろんな面で劣っていたと感じています」

後編〉〉〉藤田敦史監督インタビュー「今度はうちが」

【Profile】藤田敦史(ふじた・あつし)/1976年、福島県生まれ。清陵情報高(福島)→駒澤大→富士通。1995年に駒澤大に入学。前監督の大八木弘明(現・総監督)の指導の下、4年連続で箱根駅伝に出場。4年時には箱根4区の区間新記録を樹立。1999年に富士通に入社し、2000年の福岡国際マラソンで当時の日本記録をマーク。世界選手権にも2回(1999年セリビア大会、2001年エドモントン大会)出場。現役引退後は、富士通コーチを経て、2015年から8年間、駒澤大のヘッドコーチを務める。2023年4月に駒澤大監督に就任し、1年目は出雲駅伝、全日本大学駅伝で共に優勝。箱根駅伝は総合2位。

プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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