「陸上が楽しくなかったし、最後はプレッシャーのほうが強かった」北京五輪4×100リレーを走れなかった齋藤仁志が苦しんだその後の陸上人生 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

 前年の北京五輪で4人を送り出す時とは心境が違った理由をこう続ける。

「『塚原さんや高平さんと行くのが、藤光や江里口で俺じゃないんだ』という気持ちが強かったです。『末續さんと朝原さんからバトンを受け取ったのは俺じゃないか。去年から何も学んでないじゃないか』と思って涙が出てきて、サブトラックで何十本も走りました。あの時は悔しくて、レースをスタンドに見に行けませんでした」

2011年の世界陸上では4走を務めたphoto by Jun Tsukida/AFLO SPORT2011年の世界陸上では4走を務めたphoto by Jun Tsukida/AFLO SPORT 大学を卒業し、サンメッセに入社した2010年はシーズンベストが21秒01と落ち込んだが、11年には復調して日本選手権の予選でA標準記録を突破。決勝で高平に次ぐ2位になって2度目の世界陸上に出場を果たした。本番では準決勝に進出し、4継は予選敗退だったものの前年の悔し涙を取り返す、メンバー入りを果たして4走を務めた。

「あの世界陸上は、チームを引っ張らなければという思いが強すぎて空回りしていました。すごく調子がよくて、いい条件なら20秒4台は出そうな状態だったので、結果を出さなくてはと個人種目にすべてを懸けていました。リレーの時は、そのダメージで足が痛くて走れない状態でしたが、チームの戦力も100mの個人出場者がいない状況で、かなり落ちていたので、弱みを見せる訳にはいかなかったんです。

 高平さんはいたけど、日本チームの場合は2番手や3番手の選手がチームを引っ張るのがそれまでの形で、北京でも朝原さんではなく末續さんや高平さんが後輩を見ていてくれたように、自分がその役割を担ってなんとかしなければとも思い、後輩にも積極的に声をかけていました」

 個人としても、チームとしても背負いすぎた結果、アキレス腱痛の代償を負った。北京五輪後からの思いを持って臨んだ2012年は、ロンドン五輪代表を狙った日本選手権の200m決勝で若手の高瀬慧(富士通)と飯塚翔太(中央大)に負け、3位の高平に0秒01及ばない4位。それだけの僅差で五輪代表を逃してしまった。

「北京の年の日本選手権は例えるなら、しっかりとトレーニングが積めていたので答案用紙を全部埋めて結果を期待しながらワクワクしながら待っている状態。でも、ロンドンの年は前年までの貯金で走っていただけで、練習は8割程度しか満足に消化できず。例えるならスカスカの解答用紙で、レースに出ても『100点になるわけない』と思って走っていた感じ。僕は練習ではあまり感情を出さないけれど、日本選手権の3週間前にタイムが求めるところまで到達していないので、『これじゃ届かない』と泣いたこともありました。万全の準備をできなかった自分の弱さが出たのかな、と思います」

 北京五輪からの4年間で取材を受ければ、必ず北京の振り返りからロンドンへの話を聞かれた。その度に真面目な齋藤は答えていたが、正直なところ重荷になっていた。

「僕は気持ちが強すぎて空回るタイプだから、『次(ロンドン)は俺が引っ張らなければ』という思いが強くなり、『もっと上へ、上へ』というふうに練習を積んでしまったところがあります。まだ、そのレベルに達していないとわかっていても、取材では『20秒2台を狙います』と言わされたり......。現実的には20秒5台をコンスタントに出すのが精一杯で、そこから上にいくにはまだやらなければいけないことがたくさんあって、そう発言することで気持ちと走りがブレてしまう。目標の数字と現実が乖離していくなかで、自分を追い込んでしまい、陸上が楽しくなかったし、最後はプレッシャーのほうが強かったですね」

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