髙橋萌木子が「私の陸上を返してよ」と号泣したロンドン五輪 リレーメンバーから本番直前に外され帰国後は「バトンが握れず走れなくなった」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【精神的に走れなくなってしまった】

 全日本実業団に向けて当時所属していた富士通の合宿に行っても一度も走れなかった。試合には出たが、200mは4位で100mは棄権。周囲から励まされれば励まされるほど苦しくなった。

「そこから陸上に拒否反応が出てしまったのか、練習が一切できなくて10月から3カ月間は気分転換になればとサッカーチームに行っていました。ロンドンで走れなかった悔しさはあったし、次のリオ五輪では走りたいという気持ちもあり、立ち止まるわけにはいけないと思ってとりあえず体を動かしていて、器具を使わないストレングス系のウエイトトレーニングをやったり、『リオ五輪という場に立ちたい』という思いだけで動いていました」

 しかし、不運はさらに続き、2013年3月に日本陸連の沖縄合宿中に、食中毒になってしまった。

「病院に行ったら『卵を食べましたか?』と聞かれて。前夜がすき焼きだったからそれでした。2週間入院して最初の1週間で体重が4kg落ちたので、そこですべてが終わりました。4月になって帰宅してから平成国際大の男子コーチの松田克彦先生にも相談をして、まずは日常的に復帰するためにリハビリから始めました。一応所属チームもあるから、日本選手権には出なくてはいけないのでそこに間に合わせようと焦ってしまったんですよね。体重が4kgも落ちてしまっているのに、知識がないので無理矢理スプリントの動きをしていたらアキレス腱を痛めてしまったんです。

 その痛みも無視して日本選手権に出たのですが、予選落ちでした。アキレス腱は2018年までずっと痛かったですね。焦る気持ちを整えてくれる大人もいなかったので、悪い方向に向かってしまったけど、所属していた富士通の先輩だった松田先生や土江裕寛さんなど、富士通に守ってもらっていました」

 そこから始めたのは、走るためというよりも、陸上界に戻るための準備だったという。松田の職場が名古屋になったため、髙橋も2年間名古屋に住んで彼のサポートを受け続けた。

「松田先生は十種競技で世界選手権にも出場したスペシャリストなので、あらゆる体の使い方をそこで学びながら、それをスプリントに生かしていくような、本当に基本的なことを2年間積み上げてくれて。それがあったから今があります」

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