横田俊吾「箱根で優勝しても面白くなかった」青学時代の激しいチーム内競争とあまりにも苦しかった箱根の記憶 (3ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by SportsPressJP/アフロ

【最初で最後の箱根駅伝】

 横田は、近藤の表情を見て、「まじか」と思った。

「近藤のあれほど苦しそうな顔って練習やレースで見たことがなくて......。ちょっとおもしろいなぁって思いつつ、自分もしっかりと走らないといけないと思いました」

 横田はスタートすると、駒澤大の篠原倖太朗とともに前をいく中央大を追った。お互いをけん制し合い、並走していくが18キロ地点で篠原がペースをアップさせると、横田は少しずつ離れていった。

「それまでの3年間、差し込みなんて出たことなかったんですけど、出雲と全日本に続いてこの時も出てしまい......痛みが続いている中、並走していたので、すごく長く感じました。3区は富士山が見えて気持ち良く走れるんだろうなと思っていたんですが、あまりにも苦しくて、イメージしていた箱根とは全然違いました(苦笑)」

 箱根駅伝が終わり、2月の別府大分マラソンに向けて練習をスタートした時は、不思議なことに差し込みがまったく出なくなった。

「知らない間に、なんか重たいものを抱えていたのかもしれないです」

 横田は、最初で最後の箱根駅伝を38位という成績で終えた。最終学年で走れた喜びを感じたが、後悔の念も生じた。

「後悔しているのは、最初から攻めの姿勢で前を行く中央大のうしろについていかなかったことです。中央大に追いつけば、自分が篠原君を引っ張っていく必要がなかった。でも、初めての箱根で、21キロの距離をあのペースでいくのは、ちょっと怖いなって思ったんです。それで中央大を追わずに並走して足を使い、離されてしまった。途中でダメになっても中央大を追っていくべきだったなと思いました」

 横田たちの代は、岸本、近藤、中村ら強い選手が多く、「最強の4年」と称され、青学大は駒澤大と並んで優勝候補に挙げられていた。しかし、出雲駅伝、全日本大学駅伝は駒澤大に敗れ、箱根駅伝も総合3位に終わり、横田たちの代のシーズンは、無冠に終わった。

横田は、箱根駅伝で勝つことの難しさをしみじみと感じた。

「箱根駅伝で勝つためには、体調万全の10人をいかに揃えられるか、ということが重要です。僕も11月ぐらいから調子を落として箱根まで戻らなかったんですが、他にも体調不良者や故障者が出てチームとしてはかなりボロボロの状態だったんです。神林(勇太)さんも(4年時だった2021年の箱根は)走れなかったですが、強い、強いと言われても優勝するためには走るべき人が揃わないとダメなんです。箱根は甘くない、改めて厳しい大会だなと思いました」

 それでも箱根駅伝を走った経験は大きいと横田は言う。

「卒業して思うのは、やはり箱根を走ったのと走らないとの差は大きいと思います。あれだけ大規模なレースはないですし、プレッシャーがある中、自分の力を発揮する難しさも感じました。ただ、箱根を走ったから終わりではなく、その経験を今後の競技人生に活かして、さらに活躍していきたいと思っています」

後編に続く>>苦難の社会人1年目を乗り越えた横田俊吾「勝負はラストに待っている」マラソン日本学生記録を引っ提げてMGCへ

プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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