伊東浩司が突然のメンバー変更でリレーに出場→複雑な心境 アトランタ五輪でアジア新を出すも「外された人のことを考えていた」 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Koji Aoki/AFLO SPORT、Nakamura Hiroyuki

【日本陸上界を牽引する存在に】

 伊東はその後、積極的に海外の試合に出るようになり、98年10月の日本選手権では200mで20秒16(同年世界ランキング7位)の日本記録を出すと、100mでは10秒08の日本タイ記録をマーク。さらに12月のアジア大会100mでは10秒00(同年世界ランキング10位)をマークし、100mと200m、4×100mリレーの3冠を獲得して大会のMVPに。そして2000年シドニー五輪では100mと200mと準決勝に進出。メダル獲得を意識していた4×100mリレーは決勝で3走の末續慎吾(東海大)がレース中に肉離れを起こして6位だったものの、そこからの日本短距離躍進の礎を作る走りを見せた。

「最後には400mやマイルリレーをやりたい、という気持ちはずっとあったけど、高野さんを見てあそこまですべてを投げうってやる自信がなかったというのはあります。誰かに背中を押してもらえたらやったかもしれないけど、ショートスプリントの面白さも感じてしまったので......。もし国内だけに留まっていたらマイルもやりたいと思ったかもしれないけど、広い世界の100mや200mを見てしまったら、日本の恵まれた環境のなかだけで走っていたいとは思えなくなりました」

 五輪を目指すだけではなく、走る場を世界に求める"世界標準のアスリート"になろうと努力を続けていた伊東は、2000年のシドニー五輪の最終レースが終わるとすぐに、バルセロナ五輪以降体調管理のために絶っていた、大好きなマヨネーズと缶コーヒーを解禁したと笑顔を見せた。そこで彼は、競技から身を引くことを決めたのだった。

「五輪代表というのは都合よく使われる時があり、バルセロナは補欠だったにもかかわらず、アトランタまでの4年間は、いろんな大会のレーン紹介で『五輪代表』と言われるのが嫌でした。それを打ち消すためには次も出場するしかないと思っていました。でも実際に出てしまうと、当たり前なのですが、バルセロナ代表は消えるんですね。いつの間にかプロフィールでは、僕の五輪代表は実際に走った2大会になってしまっている。補欠だった代表を消したいのか、消したくないのかわからない状態になっています。

ただ、あのバルセロナの経験は、今指導している青山華依さんと出会って、初めて生かされたような気がします。5番目の選手という立場で代表になった今年の世界選手権前に、『膝が痛いなら辞退してもいいんだよ』と言うと、『嫌です、行きます』と返事をしたから、『得るものは何ひとつないよ』と自分の経験を話しながら、準備期間中や現地での対応をアドバイスすることができました」 

「何も得ることはなかった」と振り返った伊東の経験は、36年の時を経て意味のあるものへと変化を遂げた。

Profile
伊東浩司(いとう こうじ)
1970年1月29日生まれ、兵庫県出身。
東海大学入学後、1992年バルセロナ五輪で初代表に選出されるも出場は、なし。富士通入社後の1996年アトランタ五輪は、200mで日本人初の準決勝進出を果たし、4×100m、4×400mにも出場した。 2000年シドニー五輪では、100m、200m、4×100mに出場。1998年に100mで日本記録の10秒00を出したが、これは2017年に桐生祥秀が更新するまで19年間破られなかった。2008年に早稲大学大学院スポーツ科学研究科修士課程を修了。解説者のほか、日本陸上競技連盟強化委員会短距離部長を務め、現在は甲南大学で短距離の青山華依などを指導している。

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