「5人目のリレーメンバー」のつらい心情と耐え難い日々 伊東浩司が「アスリートとして得るものはなかった」バルセロナ五輪を振り返る (4ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 中村博之●撮影 photo by Nakamura Hiroyuki


「南部記念の前後くらいからはもうつらい日々で、なにが起きているかあまりわからなかったくらいです。そこからは本番まで1カ月くらいヨーロッパに行ったのですが、コーチたちからもリザーブ扱いだし、やっているほうもリザーブだと思っていて目標がないので本当にモチベーションを保つのが難しかったですね。一応練習メニューはあっても、どうしても『メインの人ありき』という気持ちになってしまう。だから日々を消化していくだけで、調整しているという感じではなかったし、『あの1カ月間はなんだったの?』という感覚。

 だから400mハードルの選手がリレーメンバーに入ってきた時も、『なにくそ!』というよりも、『彼らは個人種目で標準記録を破っているし、日本選手権も自分のほうが下の順位だったから仕方ないな』という気持ちになっていました」

 五輪の場合はJOCが設定する競技別の人数枠があるため、世界選手権のように参加標準記録を突破していれば出場できる訳ではない。事実、伊東と同じ富士通の所属選手のなかでも、400mハードルでは前年の世界選手権で準決勝進出を果たしていた苅部俊二や、3000m障害の仲村明が標準記録突破も、代表入りできなかった。そんななかで標準記録に届いていない上、出場できるかどうかわからない自分が代表になっていていいのだろうか、という思いもあった。

「形としてはメンバー発表まで可能性があるとはいえ、自分が明らかに出られないポジションとわかっていて一緒にいるのは本当にしんどいというか、調整も難しかったです。だからあの1カ月間はあまり記憶がなく、何をやってもしんどかった。もう自分の体であって、自分の体ではないような感じでした。僕だけ同学年がいなかったので、年齢が近い渡辺や100mの鈴木久嗣たちとは話はしていたけど、彼らはレースに出るのが確実だったから気持ちは鬱々していて......。本当にあのバルセロナ五輪で得たものといったら、今の妻(1万m出場の鈴木博美)と出会えて選手村でいろいろ話をして親しくなったこと以外には、何ひとつなかったな、と思いました(笑)」

【走ってこそ得るものがある】

 ずっとリザーブの2番手という立場で過ごした、6月中旬から8月上旬までの1カ月半。それをトータルして考え、アスリートとして得るものがあったかと聞かれれば、「なかったと言うしかない」と、伊東は言う。

「やっぱりアスリートは走らないと。観客席から見たスタジアムの光景は、あまり得るものがないですね。だから22年の世界選手権に指導する青山華依さんが400mリレーの5番手の選手として行く時、『走れないとわかって練習をしている時より、レースを目の前で見終わったあとのほうがしんどいよ』と話しました。走った人たちには達成感が必ずあるので、そこに気持ちの差ができる。チーム全体で戦うという美学があるというけど、出られない選手にはそんなものはない。僕がバルセロナ五輪で得た結論は、『個人種目で出なければいけないんだ』というものでした」

(つづく)

Profile
伊東浩司(いとう こうじ)
1970年1月29日生まれ、兵庫県出身。
東海大学入学後、1992年バルセロナ五輪で初代表に選出されるも出場はなし。富士通入社後の1996年アトランタ五輪は、200mで日本人初の準決勝進出を果たし、4×100m、4×400mにも出場した。 2000年シドニー五輪では、100m、200m、4×100mに出場。1998年に100mで日本記録の10秒00を出したが、これは2017年に桐生祥秀が更新するまで19年間破られなかった。2008年に早稲大大学院スポーツ科学研究科修士課程を修了。解説者のほか、日本陸上連盟強化委員会短距離部長を務め、現在は甲南大学で短距離の青山華依などを指導している。

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