「箱根駅伝本番直前に重要区間から外された」青学大・下田裕太 それでも初出場で8区区間賞が獲れたワケ (4ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 西村尚己/アフロスポーツ

4年間、箱根を無敗で卒業】

 下田は余裕を持った走りで区間賞を獲得し、優勝を確実にする役割を果たした。

 大学3年時は、往路の4区が希望だった。逃げの4区で結果を出す自信があったが、結局、3年目も8区に置かれた。

「原監督は、成功体験を大事にするんです。だから、前年でタイムが良かった8区で同じように走ってほしいということなんですけど、当時は選手層が厚くて往路に駒が足りないということはなかった。各自が一番力を発揮できる区間ということで僕は8区でした」

 この時は、7区に田村、8区に下田と青学大のダブルエースが復路に置かれた。他大学はそこにエースを置ける青学大の選手層の厚さと全体の強さに、なす術がなかった。ただ、田村は暑さによる脱水症状でいつもの走りができず、失ったタイムを下田が激走して取り返した。田村と下田は、単独でも強いがお互いを補完し合える最強2トップだったのだ。

「僕は、田村のことを認めていたし、尊敬していました。ダブルエースと言われたこともありましたが、僕の中では田村がエースで、僕はなんちゃってエースだと思ってやっていました。役割分担というか、田村は短い距離で爆発力のある走りで、コンスタントに駅伝を走れるタイプ。僕は暑さが得意で短い距離は苦手だけど、長い距離が得意で箱根では戦える。お互いに支え合うというか、助け合う感じでやっていました」

 大学4年目も8区区間賞で優勝に貢献し、箱根駅伝4連覇の偉業を達成した。

 3度走った箱根で下田が一番印象に残っているのは、4年時の箱根だという。そのシーズン、下田はかなり苦しんだ。大学3年の終わりに膝を痛めて、2カ月ほど離脱し、復帰するとフォームがしっくり来ず、うまく走れなくなった。さらにアディダスとミムラボのコラボが終わり、アディダスを履くのか、ミムラボのシューズを履くのか、定まらなかった。フォームが整わず、シューズの影響で足にマメが出来てしまい、走り全体が噛み合わなかった。大学2年目までの思い描いていた成長曲線と現実のギャップに悩み、メンタル的にも厳しい時期がつづいた。全日本大学駅伝は54位に終わり、11月末の学連記録会10000m29146022位とはずして、「これでもう箱根を走ることはない」と落ち込んだ。だが、箱根本番10日前の5キロ2本という重要な練習でいい走りができて、流れが変わった。

「常にギリギリのところでやっていたのが4年目でした。先輩たちが繋いできたものを、絶対に繋げていかないといけないという気持ちもありましたけど、それ以上にここまで勝ってきて自分の代では勝てないで卒業するのは本当にいやだった。自分も結果を出して、チームのみんなでよかったね、で終わりたかった。結果的にある程度走れて、チームの勝利にも貢献できたので、終わりよければだったんですけど、大学で一番、苦しかったシーズンでした」

 この時、青学大はひとつのピークを迎え、下田は4年間、箱根を無敗で卒業した。

後編に続く>>「もう走れません。今年で陸上やめます」...ドン底状態からMGC出場権を勝ち取るまでに奮い立たせた恩師の言葉

プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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