「箱根駅伝本番直前に重要区間から外された」青学大・下田裕太 それでも初出場で8区区間賞が獲れたワケ (3ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 西村尚己/アフロスポーツ

【苦い経験となった全日本から箱根へ】

 同期は、記録会で自己ベストを更新していく中、下田は1430秒をコンスタントに出していた。その安定感が評価されたのか、夏の選抜合宿に1年として田村、中村、貞永隆佑とともに選ばれた。そのまま箱根駅伝の登録メンバー16名に入り、出番こそなかったが、この時、青学大は箱根駅伝で初の総合優勝を果たした。

 下田の3大駅伝デビューは、2年時の出雲駅伝だった。

 チーム内は久保田や神野、秋山雄飛ら主力が故障中で出雲を走れるスピード系の選手がいなかった。そこで2年生の田村、中村、下田が選ばれた。

「優勝するからお前、区間賞獲ってくれよ」

 先輩たちからは、そう言われた。その言葉に下田は、戸惑った。

「メンバーに入った時、自分が走るの? 箱根で優勝したメンバーの中に入って大丈夫なの? って感じでしたし、先輩には『区間賞』と言われて、なんか意味がわからない感じでした。高3の時、都大路を走ったけど、僕は35位だったんですよ。2年経過したとはいえ、そういうレベルの選手に区間賞を獲ってって、なんでそんな高い要求をされるんだろうって思っていました。正直、出雲は駅伝をちゃんと自分が走って、チームを優勝に導くという感情がまだなかったんです」

 チームを勝たせるという心構えがまだできておらず、下田は消極的な走りで46位に終わり、苦い駅伝デビューになった。その後、気持ちを切り替えて出場した全日本大学駅伝は5区区間賞を獲り、箱根駅伝のメンバーに順当に選ばれた。この時、下田は8区区間賞の走りで優勝に貢献するのだが、最初は8区ではなく、1区の予定だった。

1区予定の久保田さんの調子が戻らず、1226日あたりに監督に1区だって言われたんです。最初は、えぇって思いましたよ(苦笑)。往路は1区以外決まっていて、復路も7区まで決まっていたので、誰が1区を走るのかという時に僕が指名されたんです。言われた次の日に車で下見をして走りをイメージしたんですが、すごく緊張しました。気持ちを1区に向けて整えていたら箱根本番の3日ぐらい前に久保田さんの調子が戻って、僕は8区になったんです。言い方はよくないですけど、重要区間から誰が走っても変わらない8区に置かれて‥‥おかげで緊張もプレッシャーもなく、8区なら区間賞獲れるやろーっていう感じで走ることができました」

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