「この1年間は、ようやく純粋にテニスができた」国枝慎吾が東京パラ優勝で感じた、車いすテニスの社会的認知の変化 (2ページ目)

  • 荒木美晴●文 text by Araki Miharu
  • 植原義晴●撮影 photo by Uehara Yoshiharu

 そして、プロ転向から1年半後の2010年11月、あるニュースが飛び込んできた。

「国枝、連勝記録が『107』でストップ」――。2007年11月から3年間負けなしだった国枝選手が、シングルスの世界マスターズでステファン・ウデ(フランス)に敗れた、という内容だった。のちのインタビューで国枝氏本人は、「実際には連勝にはこだわりがなく、連勝の数もまったく数えていなかった」と答えているが、世間は「あの国枝選手が負けた」とざわついた。他競技も含めて長らくパラスポーツを取材しているが、試合に「負けたこと」が話題となるパラアスリートは、彼が最初だったと思う。

 引退会見でも話していたが、国枝氏が現役生活で戦ってきたもの、それは「相手」、「自分」、そして「車いすテニスを社会的に認めさせたい」という課題だった。そういう意味では、この2010年のニュースは3つ目の解決に一歩近づいたともいえるが、本人が想い描く理想とはまだまだ乖離があった。

「車いすでテニスをやっていて偉いね、と言われたことがある」。国枝氏でさえぶつかる社会の壁。そんな日本で、どうすれば車いすテニスが"スポーツ"として認知されるのか。国枝氏は、技術のアップデートを重ねていくとともに、自分にしかできない責務の果たし方を考えていた。

 たとえば、ウインブルドン。ウインブルドンの車いすテニスの部は、グラスコートでの車いすの操作が難しいからという理由で、長らく男子と女子のダブルスのみの開催だった。しかし、当の選手たちは「車いすでもできる」とアピールし、特に国枝氏は「ほかのグランドスラムと同じように、シングルスもダブルスもあるのが当たり前だろう」と言い続け、2016年に晴れてシングルスも導入された。そこで男子と女子の選手たちがハイレベルなプレーをきっちりと見せたことで、3年後の2019年には上肢にも障害があるクアードクラスも実施されるようになった。

 また、日本で唯一のATP(男子プロテニス協会)ツアー公式戦の「楽天オープン」も国枝氏の働きかけで、2019年に車いすテニスの部が新設された。国枝氏は当時、「世界のトップ選手はずっとATPツアーでの車いすテニスの同時開催を望んでいた」と語っており、3年ぶりの開催となった昨年大会も「日本でクオリティの高いプレーを見せたい」と、国枝氏自らが直前の全米オープンで他国の選手に出場を打診するなど、熱心に活動。ビザの関係で海外選手は来日を見送ったが、大会は注目を集め、満員の観客のなかで決勝を戦った。

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