藤澤五月が初の世界選手権で痛感したこと「アイスの見極めと攻める勇気が私には足りなかった」 (2ページ目)

  • 竹田聡一郎●取材・構成 text by Takeda Soichiro

 5勝6敗で7位という成績は実力どおりで、優勝したスコットランド代表のミュアヘッド選手は、ジュニア時代から私の前にある大きな壁でした。

 世界選手権で自分たちの課題が浮き彫りになったことは、自らの成長、チームの今後のためにも悪いことではないのですが、その年に目標としていたソチ五輪出場をかけた国内トライアルや世界最終予選、さらには翌年の五輪本番も、すべて慣れないアイスで勝機を探らなければいけない戦いが続きます。そこまでに何ができるのか。課せられたものをしっかり見つめる必要がありました。

【違和感に蓋をしてしまった勝負のシーズン】

 2月に日本選手権、3月に世界選手権を戦って、束の間のオフを挟むと、勝負の2013-2014シーズンを迎えました。9月に予定されていたソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦に向け、中部電力さんは春から練習時間を確保してくれたり、練習試合の相手として韓国のチームを呼んでくれたり、会社全体でバックアップしてくれました。

 その際、夏に軽井沢で行なった韓国のチームとの実戦形式での直前合宿で、私たちはほとんど勝てませんでした。正確には覚えていないのですが、3~4試合をして1勝できたかどうか、と記憶しています。

 普通ならそこで、「あれ、何かおかしいぞ?」と疑問を感じて修正していくのですが、私たちはそうした考えに至りませんでした。今考えると、"そこまでの経緯"や"外からの見え方"に流されてしまっていたのかな、と思います。

 チームを結成して2シーズン目となる2011年に日本選手権で初優勝。その勢いのまま、私たちは日本選手権3連覇中でした。日本代表として、世界選手権にも出場させてもらいました。

 その経緯の途中にいると、世界選手権では実力不足で負け越して帰国したにもかかわらず、周囲からは「日本で勝って、世界の舞台も経験して、次はいよいよオリンピックだね」と声をかけられることが増え、「目標のオリンピックに向けて順調に進んでいる」――そんなふうに見えていたかもしれません。

 もちろん応援してくれる方々の声は、私たちにとても大きな力を与えてくれました。日本代表決定戦に向けて軽井沢で壮行会なども開いてくれて、「頑張ってね」と送り出してくれる人がたくさんいてくださって、「みんなで札幌へ応援に行くからね」と言ってくれる人も多かったです。みなさんの後押しは何よりの励みになりましたし、本当に感謝しています。

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