「数字=私の評価にはすごく違和感があった」スピードスケート小平奈緒が振り返る現役時代、好調時の葛藤 (4ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

【最後のレースは長野で】

 北京五輪シーズンに入る前の夏には、翌年のシーズンの(五輪後に)長野で開催される競技会で、競技をやめると決めていた。本来なら北京で結果を出し、最後は自分を育ててくれた長野市のエムウエーブで滑ろうと思っていた。19年以降、体に違和感があってからは自分と向き合い、3年ほどかけしっかりやり遂げられる状態までもってこられていたからだ。そして、その思いは北京五輪直前のケガ後も変わることはなかった。

「お祭りで終わるのではなくて、本当にアスリートとして戦う姿で駆け抜けたかったんです。だからその1レースのための凝縮した時間をすごすのは辛いとは思いませんでした。それまでも『この動きがスケートにつながる』と思えば、どんな練習でも楽しくできていたけど、1シーズン分というか、自分の競技人生を包み込むようなレースというか......。それを500mの1本にすべて凝縮させられたら最高じゃないかと思いました」

 エムウエーブと言えば、小平が子供の頃に見た98年長野五輪のスピードスケート会場であり、その時に感じた熱をもう一度作り上げることができたら、それが恩返しになるのではという思いもあった。

「世界のトップレベルで十分戦えるタイムで終われたのは、『ああ、よくやれたな』とも思うし、自信を持ってやめられるなとも思いました。だから平昌の36秒台より、ラストレースの満足度のほうが高いかもしれませんね。あの空間は平昌でも作れなかったものだったし。私が主役でみんなが自分を見てくれたというより、駆けつけてくれた人たちそれぞれ主役で、会場にいたみんなであの空気感を作り上げた感じです。

 それにエムウエーブで大会をやると、長野五輪の時に結成された"エムウエーブ友の会"というボランティア団体があって、関係者のIDチェックやゴミ拾い、片づけをやってくれている。私も小学校の大会からそういう人たちにお世話になっているけど、これまではガラガラの観客席で、『長野五輪の熱はどこに行ったのだろう』という気持ちになっていたと思います。そういう人たちに恩返しじゃないけど、夢の舞台を支えてくれていた人たちにもう一度、当時を思い出すようなプレゼントができたのではないかと思っています」

 こうして最高の形で最後のレースを終えた小平奈緒が、引退後に歩んでいる道、またこれから描いている未来とは――。後編では、現在とこれからについて聞いていく。

後編:「注目される生きづらさのなかで見つけた人とのつながり 今後の新たな挑戦」>>


Profile
小平奈緒(こだいら なお)
1986年5月26日生まれ。長野県出身。
3歳からスケートを始め、中学2年で全日本ジュニアの500mで優勝すると、高校でも500m、1000mでインターハイ2冠達成など力をつけていった。信州大学進学以降は、結城匡啓コーチに師事し、バンクーバー五輪ではチームパシュートで銀メダル、平昌五輪では、500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得し、日本だけに留まらず女子スピードスケート界を代表する選手となった。北京五輪後の2022年10月の引退レースとなった全日本の500mでは、見事優勝を飾っている。

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