ジャンプ、葛西紀明7度目の五輪で「狙うは金メダル」 (3ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • 千葉茂●写真 photo by Chiba Shigeru(人物) photo by AFLO SPORT(競技)

長野五輪はケガの影響もあり、団体に出場できず悔しさが残る大会になった長野五輪はケガの影響もあり、団体に出場できず悔しさが残る大会になった  それまでの葛西の特徴はスキーの先端が顔の上まで上がってくるほど前傾するジャンプで、ヨーロッパでは"カミカゼ"と評されていた。だがルール改正でスキーの長さが身長プラス85cmから80cmに変更され、ビンディングの位置も変わってスキーの前側が短くなった。さらに最新のビンディングは踵(かかと)と、スキーがベルトで一定の距離までしか離れないようになり、ワイヤーで固定していたものと違ってスキーの先端が上がって来なくなったのだ。

 そのため以前のような前傾姿勢で飛ぶとスキーの先が下がってしまう。そこを気をつけるように言われていたが、今までと勝手が違う中、W杯開幕直前の練習で転倒して鎖骨を折ってしまった。年明けにまた転倒して同じ箇所を骨折した彼は、しばらくは怖くてジャンプが飛べないほどになった。葛西は「本当に恐怖心無く飛べるまでには10年かかりました」と言う。

 そんな不調の時期に追い打ちをかけるように、96年の秋に母親が火事で大火傷(やけど)を負うという不幸に見舞われた。97年1月のW杯白馬大会で2位になって3年ぶりに表彰台に上がった時には、「骨折をしてからは満足のいくジャンプが出来なかったり、母が大火傷をしたり。精神的にも肉体的にも辛い事だらけで、なんで自分だけこんな事が降りかかってくるのかと思いました。だから今日は優勝したような気分です」と目を真っ赤に腫らしていた。

「結局、母は火傷の影響で長野五輪前年の夏に亡くなりました。不調に苦しんでいた時はそれが自分の負担になるというより、余計に頑張ろうという気持ちになりましたね。骨髄の病気だった妹や母の辛い思いに比べれば、僕の辛さはたいしたことじゃないと思っていました」

そんな思いを持って臨んだ長野五輪だったからこそ、ノーマルヒルだけの出場で、団体の金メダル獲得をランディングバーンで見ていることしか出来なかった自分に余計、腹立たしいほどの怒りを感じたのだ。

 その怒りをぶつけるように、98~99年はW杯総合3位、00~01年は総合4位と低迷し始める日本チームを引っ張った葛西だが、一度だけ競技を辞めようと思ったことがある。それは02年ソルトレークシティ五輪の個人戦で転倒するなど、ノーマルヒル、ラージヒルともに40位台に沈んで団体のメンバーから外れた時だ。

「あの時は体も絞って減量していたし、筋力もすごくて体力とメンタルは完璧だと思っていたんです。ソルトレークに行く前のW杯札幌大会でも3位になっていて調子もよかったし。それなのに結果を出せず、『あれだけやったのにこの成績か』と気持ちが折れましたね。何をやれば勝てるんだって......」

 その前シーズンからギリギリまで体重を絞るために、ヨーロッパ勢がやっているように食事の後すぐにトイレに行って、全部吐き出してしまうこともやった。

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