高橋大輔に長光歌子が伝えた「日本人として恥ずかしくないマナー」 アジア初の偉業を回顧 (2ページ目)

  • 小宮良之●取材・文 text by Komiya Yoshiyuki

【日本男子初の五輪メダルの思い出】

ーーいまや日本人選手が世界トップで活躍し、国内でもフィギュアスケートが人気スポーツになりました。その時代をつくったひとりが高橋さんですが、過去、世界ジュニア選手権で優勝後のシニアデビューは苦しんでいますね。

 世界ジュニアで優勝し、(2002−2003シーズンに)シニアに上がったのはいいけど、大輔の頭のなかがついていかなかったですね。2年間、世界では戦えなかった。ドイツの大会で、練習で4回転を思いきり転んでしまい、控え室ではエフゲニー・プルシェンコが「おまえ、大丈夫か?」って心配してきたそうです(苦笑)。

 テレビで見ていた選手といきなり同じ舞台で......。彼の場合、優しさもありますが、自己肯定感が低かったから、余計でしたね。「俺はジュニアワールドチャンピオンだぜ!」と勘違いして挑んでくれたほうがラクだったかもしれません(笑)。

ーーしかし高橋さんは着実に演技を成熟させ、膝前十字靭帯のアクシデントも乗り越え、バンクーバー五輪で歴史を変えました。その前夜は覚えていますか?

 たしかショートプログラムから一日空いていたのですが、あまり覚えていません(笑)。大輔はトレーナーの渡部(文緒)さんと一緒に、河原で石を積み上げることで気を紛らわせていたようですね。カナダの先住民の方にそういう風習があるようです(※イヌクシュクというカナダ先住民族が石や岩を人形に積み重ねて祈りを捧げる)。

 選手村はふたり部屋でしたが、大輔はうまくリビングに敷居をつくってベッドを置き、みんなリラックスしていましたね。

ーーメダルを勝ちとった日の夜は覚えていますか?

 メディアの方の対応で、部屋に戻ったのは午前3時近くて。何か食べた記憶もないですね。その次の日か、2日後には打ち上げのようなことをして......。ただ、当時のことでよく覚えているのは、大会の選手村に入るまで一軒家を借りて過ごしていたんですが、そこで石川さんが食事をつくってくださって、トレーナーやマネージャーと大輔で、みんな何かにつけて笑って過ごしていたことですね。

 車で30〜40分のところにエイトリンクスという、8つのリンクがある施設で練習ができて、とてもいい準備ができました。

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