パリ五輪レスリング代表・尾﨑野乃香が慶應義塾大学を選んだワケ 一流アスリートが貫く文武両道の流儀「スポーツだけの人生になりたくなかった」

  • 布施鋼治⚫︎取材・文 text by Fuse Koji
  • 保高幸子⚫︎撮影 photo by Hotaka Sachiko

幼少期から自然と文武両道の環境で育ってきたという尾﨑野乃香 photo by Hotaka Sachiko幼少期から自然と文武両道の環境で育ってきたという尾﨑野乃香 photo by Hotaka Sachiko

尾﨑野乃香インタビュー 後編

前編〉〉レスリング・尾﨑野乃香がどん底からの逆襲劇でパリ五輪へ

 レスリング女子68kg級のパリ五輪代表の座をつかんだ尾﨑野乃香(慶應義塾大)。その競技に対するあくなき探究心は、学業面でも幼少期から継続して持ち合わせてきた。「オリンピアンになりたい」「世界一になりたい」という思いを強く抱き続ける一方、「将来は社会に貢献できる人になりたい」という思いは、いまも変わらず。

 旧態依然のイメージではない、新たな日本のアスリート像を地で行く尾崎に、その人生観について聞いた。

【スポーツ専攻は自分には合わない気が......】

 成績優秀で、ずっとオール5。将来は医者か弁護士を目指しているらしい――。

 2021年4月、慶應義塾大学に進学した直後、尾﨑野乃香にまつわるそんな噂が入ってきた。

 高校3年の時、すでに尾﨑はシニアの全日本王者になっているので、筆者は「レスリングの全日本王者が医者か弁護士になったら......」と妄想してしまった。

 慶應レスリング部の歴史は古い。

 1927年(昭和2年)、日本で大日本アマチュアレスリング協会が結成されると、慶応義塾からも慶應レスリング有志会の名で2名が出席した記録が残っている。

 2024年1月、尾﨑はパリ五輪出場を決めたが、慶應レスリング部所属レスラーのオリンピック出場は、1952年ヘルシンキ大会のフリースタイル52kg級で銀メダルを獲得した北野祐秀以来、72年ぶりのこと(慶應所属の意味では1956年メルボルン大会フリースタイル+87kg級に出場した相撲部の中尾三郎以来、68年ぶり)。もちろん女子としては史上初の快挙だった。

 ただ、ひとつ疑問が残る。現在も慶應レスリング部は活動中だが、お世辞にも強豪とはいえない。高校時代からある程度全国トップレベルの成績を残し、大学でも競技活動の継続を希望する選手の場合、その大半はスカウトによって受け入れ先を決めるのが一般的だ。

 尾﨑とて、その例外ではないはず。そもそも尾﨑は高校時代、将来のオリンピアンをあまた輩出するJOCエリートアカデミーに所属するエリート候補だった。東京五輪で金メダルを獲得した須﨑優衣(キッツ)も、男子フリー65㎏級の乙黒拓斗(自衛隊)も同アカデミーの出身。にもかかわらず、なぜ尾﨑はスカウト活動を受けたわけでもない慶應を選んだのだろうか。

「体育専門とかスポーツ専攻は自分には合わない気がしたんですよ。スポーツだけの人生になりたくなかった」

 レスリングはレスリングで、全力で取り組むが、その一方で学問にも精一杯向き合う。それが尾﨑なりのバランスの取り方だった。

「だからAO入試で慶應の環境情報学部に入りました」

取材は、慶応レスリング部の練習場にて行なわれた photo by Hotaka Sachiko取材は、慶応レスリング部の練習場にて行なわれた photo by Hotaka Sachiko レスリングに限らず、かつてはオリンピックスポーツで頂きを目指す者はその競技だけに集中する者が多かった。肩書きが大学生だとしても練習や試合が最優先され、学業のほうは二の次。大学側も学校名を売ってくれそうなアスリートに限っていえばスポーツ専業というスタンスを、大目に見る傾向があった。

 しかし、時代は大きく変わった。どんな大学でも学業が優先されるようになり(当たり前と言えば当たり前のことだが)、どんなスポーツエリートでも白紙答案を提出して単位をもらえるようなことはなくなった。

 今回、パリ五輪のレスリング女子代表の顔ぶれを見ても、海外の大会で英語でインタビューを求められると、当たり前のように英語で返せる選手が増えてきた。50㎏級の須﨑優、53㎏級の藤波朱理(日体大)、76㎏級の鏡優翔(サントリー)がいい例だ。筆者は女子レスリングの第1回世界選手権(1987年)を開催地のノルウェーで取材しているが、その時の代表で片言でも英語を喋る選手は皆無だっただけに隔世の感がある。

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