武蔵と武尊が明かすK-1の過酷な闘いの日々 「負けたら終わり」と考えていた理由 (2ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji

【世界中の強い選手がK-1に集結していた時代】

武蔵 メンタルを鍛えられたという意味では、俺も武尊くんも空手出身ということもあるだろうね。基本、試合は"無差別級"だし、普段の稽古でも体重は関係なく(相手を)回して組み手をするから、大きな相手に対して「負けてまるか!」という根性が自然と養われたんじゃないかと。

 俺のK-1デビュー戦の時の体重は83キロやったけど、相手だったパトリック・スミスは100キロ超えてて。いきなりそんなデカイ相手と闘って、勝てた。それは、空手時代に鍛えられたメンタルがあったから乗り越えられたんだと思うよ。ただ、そこから試合が立て続けに組まれて、また違う意味でハートが強くなったけどね(苦笑)。

武尊 1年間で一番試合数が多かった年は、何試合くらい闘ったんですか?

武蔵 ワンデートーナメントもあったから......1999年に1年で11試合やったのが最高かな。今では当たり前のようになっているけど、当時は「顔面への打撃ありで、ワンデートーナメントって何を考えとんねん!」と思ってたよ。

武尊 うわぁ......それはヤバイですね。

武蔵 あの頃は、フジテレビでグランプリシリーズ、日テレでジャパンシリーズ、加えて大みそかにTBSが格闘技を生中継していたからね。これにワールドグランプリ、ジャパングランプリとトーナメントが2回も入る。体は悲鳴をあげてたけど、「出てくれないと困る。ムサちゃん頼むよ」って、よくわからない関係者らしき謎の男に頼まれて(苦笑)。結局は出場してたよ。

武尊 試合をする側の武蔵さんは、本当に大変だったと思います。ただ僕は、あの地上波での中継を見ていたから「K-1は夢のある世界だ」と思ったし、空手をやり始めたんです。それで高校卒業後の2010年に、K-1に出場するために故郷の鳥取県米子から上京しました。

 でも、上京して間もなくK-1が消滅した(2014年にK-1実行委員会が発足し、"新生K-1"がスタート)ので、「何を目標にしたらいいんだろう」という時期がありました。

武蔵 そうだったのか......。俺らが闘ってた前体制のK-1は世界中で試合をやっていたし、放送もされていた。当時、海外に行くと現地の人からも「試合、見てるぜ」と声をかけられたからね。それほど大きな舞台だったし、立ち技系で世界中の強い選手が日本に、K-1に集結していた。

 ただ、それほどすごいものを作ったのに、消えてしまった。俺は正直、"作ること"はもちろんすごいことなんやけど、それを"なくす"ことは、それ以上に罪が重いと思ってるよ。

武尊 (前体制の)K-1が消滅した後、僕は「Krush」という大会に出ました。その時に、「チャンピオンにならないと、発言権も影響力もない」と感じて。まずはチャンピオンを目指すことにしたんです。チャンピオンになってから、メディア活動、PR活動をやって「絶対にK-1を復活させてやる」と思って闘っていましたね。

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