アントニオ猪木から「お前を第一号の選手にする」佐山聡が振り返る「一生忘れられない」言葉 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【総合格闘技をイメージして開発した用具】

 新日本、そして猪木さんはアリ戦を行なった結果、莫大な借金を抱えた。若手レスラーの佐山は、そんな会社の事情を知る由もなく、ひたすら道場でスパーリングを重ねる日々。その中で、佐山に「他の格闘技の選手と闘ったら俺は勝てるのか?」という衝動が生まれる。そして、キックボクシングの「目白ジム」に通うことを決意した。

「若手時代、合宿所の自分の部屋に『真の格闘技とは打撃に始まり、組み、投げ、最後に極めで終わる』と色紙に書いて壁に貼っていたんです。その理想を追求するために目白ジムに通いました。ただ、目的はキックを学ぶことではありません。『どうやって打撃をかいくぐってタックルができるか』『組み手もある打撃とはどういうものか』を追求することでした。

 例えばパンチで言うと、ボクシングのパンチは内股でステップして踏み込んで腰で打つんですけど、ルールがタックルありの時にはどういう打ち方になるか、ということを研究していました」

 打撃や組技などで構成された「総合格闘技」は今ではメジャーになったが、佐山が新日本へ入門した1970年代中盤の頃は、キック、ボクシング、レスリングなどがミックスした形での「競技」は創造されていない。しかし、「タックルがあると打撃はどうなるのか」と考えていた18歳の佐山には、すでに現在の「総合格闘技」につながる構図が見えていた。

「見えてはいましたが、考えていたのは僕ひとりだけですから、練習の相手がいません。目白ジムでキックの練習をしながら『タックルは通用するのか』と考えるだけです。目白ジムではタックルをすると怒られるので、新日本の道場でひとり、自分のイメージを実践していました」

 佐山は「総合格闘技」をイメージしながら、新日本の道場と目白ジムで毎日、ひとりで練習を続けた。

 そのうちに、打撃と組技の両方に適した用具の開発を思いつく。「オープンフィンガーグローブ」だ。

 ヒントになったのは、1973年に公開されたブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』。この作品でブルース・リーが着用した、指を動かすことができるグローブを見て「オープンフィンガーグローブ」を考案。その新しいグローブを試合で使うことを、猪木さんに提案した。

 すると猪木さんは、1977年10月25日に日本武道館で行なわれた、米国人ボクサーのチャック・ウェプナーとの「格闘技世界一決定戦」で、佐山が考案した「オープンフィンガーグローブ」を着けた。試合は、6ラウンドに逆エビ固めで猪木さんが勝利した。

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