ケンコバが語るハンセンとの秘話「日本プロレス界最大の事件」の後に届いた手紙 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

――あの実況を覚えているファンは多いでしょうね。ただ、解説を務めた『東京スポーツ』の山田隆さんも「ハンセンですよ!」と口走っていました。

「そうなんですよ。だから、『倉持さんも山田さんも、ハンセンが登場することは知っていただろ』という話をしていたら......倉持さんのご子息から、『父は本当に知らなかったんです』とお手紙をいただいたんです。

 倉持さんが『マイクは死んでも離さない―「全日本プロレス」実況、黄金期の18年』(新潮社)という著書を出版された時に、出版に携わったご子息からその本をプレゼントしていただいた時に手紙が添えられていたんです。『倉持の息子です』って」

――わざわざ手紙を出すほど、『倉持さんはハンセン乱入を事前に知っていた』という認識を改めてほしかったんですね。ケンコバさんの考えは変わりましたか?

「申し訳ないんですが......『どう考えても知っていただろう』ということは譲れませんでした(笑)。ただ今は、そのことを話す機会はないですけどね。

 僕は子どもの時、倉持さんの実況が好きで、『全日本プロレス実況生中継!』みたいな感じでよくモノマネをしていました。それが、友達の間で『うまいな。もっとやって』と大好評だったんです。それくらい、倉持さんの実況は本当に好きでした。露骨に選手をえこひいきする実況とかも最高でしたよ(笑)。逆に、テレビ朝日の古舘伊知郎さんのモノマネはできなかったんです。あれは、古舘さんしか成立しない実況でしたね」

【全日本で輝きが増したブルファイト】

――ハンセンを通じて、ケンコバさんと倉持さんの間にそんな秘話があるとは、つくづくプロレスは深い物語です。そもそも、ケンコバさんはハンセンにはどんな印象を持っていたんですか?

「ハンセンは、新日本時代ももちろん脅威でしたけど、どこかで『アントニオ猪木さんが作り出す世界の中で戦っていたレスラー』のように思っていたんです。それが全日本に来てからは、まさに"ブレーキの壊れたダンプカー"でブルファイトに磨きがかかりました。

 阿修羅・原に何度も何度もウエスタン・ラリアットを見舞った試合なんて、『本当に誰も止められないんじゃないか』と思いましたからね。もっとも阿修羅・原は、そのおかげでヒットマン・ラリアットを習得しましたけど」

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