「6・26」アントニオ猪木vsモハメド・アリの実況アナウンサーが振り返る猪木の本当の心情 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【アリ戦の話に、猪木は「ムフッ、ムフッ、ムフッ......」】

 だが、舟橋の思いとは裏腹に、事態は実現へと急展開する。

 1975年3月7日の『サンケイスポーツ』に、アリが八田に対して「東洋人で俺に挑戦する者はいないか」と明かしたという記事が掲載された。これを受け、猪木はアリへの挑戦を表明。同年の6月9日、アリがマレーシアでの試合前にトランジットで羽田空港に立ち寄り、その際に行なわれた会見の席で、新日本プロレスの渉外担当者が挑戦状を手渡した。

 ここから水面下で交渉が始まり、翌年の3月25日、ニューヨークのプラザホテルで調印式が開かれた。しかし舟橋は、それでも「猪木vsアリ」に対して懐疑的だった。

「やることは決まったけど、『ルールが大変だな』と思っていました。プロレスとボクシングではルールがまったく違いますから、どう成立させるのか。場合によっては破談になる、とも考えていました」

 アリに挑戦状が手渡されてから、ニューヨークでの調印式まで約9か月。その間、舟橋は毎週のテレビ中継で、猪木を取材していた。しかし、猪木は他の試合については雄弁だったが、アリ戦の話になると口を閉ざすことが多かったという。

「アリ戦の話題になると猪木さんは寡黙になりました。何を聞いても『ムフッ、ムフッ、ムフッ......』って微笑むだけで返事を避けていた。話せないことが多かったんでしょうけど、猪木さんの心情は痛いほどわかりました」

 さらに『ワールドプロレスリング』の番組プロデューサーなど幹部から、「番組内でもアリ戦の話題はなるべく触れないように」という指示があった。

「プロデューサーや運動部長から、『放送の中でその話題を入れるのはやめよう』と。それは、実現しない可能性もあったからなんです。それだけ猪木vsアリは、私だけでなく局全体としても半信半疑だったということです」

 ただ、ひとりだけ、実現を信じて闘志を燃やしていた男がいた。他ならぬ、猪木本人だ。

「試合が決まるまでは話せないことも多かったようですが、猪木さんは『世界最強』と言われていたアリと闘うことで、プロレスの虐げられた歴史を正しく認識させようと思っていたんです。常に強さを追求して必死に汗を流しているのに、プロレスは世間から『八百長』などという悪いイメージで見られることが多かったですから。

 試合をやるとなれば、(アリへのファイトマネーなどで)新日本側が赤字になることはわかっていた。でも、お金は関係ない。プロレスの市民権を取り戻す、世間を見返してやるという一心だったようです。試合が実現するまでは周囲から『できるわけない』などと揶揄されていましたが、猪木さんの真剣な部分は一切ブレなかったですね」

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