馳浩が仕掛けたグレート・ムタ戦での布石に、ケンコバは「なんてすごい流れなんや!」 引退したムタの功績も振り返った (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • 山内猛●撮影 photo by Yamauchi Takeshi

――そうかもしれませんね。

「あとは、新日本のストロングスタイルを支持する熱狂的ファンの心を"ほぐし"ましたよね。その結果、今の新日本はさまざまなプロレスが見られるようになりました。それも、武藤さんやムタの功績だと思います」

――そのすべての原点が、1990年のサムライ・シロー戦からの馳浩戦だったんですね。

「繰り返しになりますが、あらためて馳浩という男の才能のすごさを感じます。実際、武藤さんが2度目の凱旋帰国(1990年4月)をした際、蝶野さんとのタッグでIWGPタッグベルトを奪取し、『武藤・蝶野組でいくんやな』と思ったら、武藤・馳組になってIWGPタッグを奪った。

 この頃、武藤さんが試合後のインタビューで『馳と組んだら、俺が動かなくていいから楽だよ』と言っていたのも思い出します。あの天才が信頼するほど、馳さんもやはりすごかったということですね」

――馳さんは、佐々木健介さんとの「馳健」タッグでも一世を風靡しました。

「そうですが......これは、あくまで俺の想像なんですけど、馳さんは健介さんとやっていくのはあんまり、と思っていたかもしれません。

 なぜなら、健介さんは『闘魂三銃士』にコンプレックスがあったけど、馳さんはなかったから。『自分は誰よりもプロレス的に頭が切れる』と自覚していたから、馳さんは『リング上で放つ華は闘魂三銃士にはかなわない。それなら、俺は3人を動かしてやる』という思惑があったんじゃないかと。だから、馳さんが1990年代に裏方に回るとか、思い切ってそちらに舵を切っていたら、三銃士はもっとすごい存在になっていたかもしれません」

――想像をするだけでワクワクしますね。

「武藤さん、ムタについて話そうと思うと、ついつい馳さんのすごさを語ってしまうんです。ホンマに、この2人はすごい。ひとつだけ、ムタがブレイクする中で、俺が応援している越中さんだけ時代に追いつけなかった感があったのは残念でした。

 武藤さんの現役時代を振り返ると、『黒歴史』と言われるのは異種格闘技戦のペドロ・オタービオ戦(1996年9月23日、横浜アリーナ)ぐらいだと思われがちですが、今回話したムタとしてのサムライ・シロー戦があったんです。そりゃあ、名前がリングネームに変わっただけだから無理ですよね(笑)。ムタという圧倒的な光の陰に、越中さんという最大の犠牲者がいたことを、みなさんも忘れないでください」

(連載10:「ハンセンがハンセンじゃなかった試合」全日本のリングで見せた珍しいファイト>>)

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