ケンコバが憤ったグレート・ムタの「黒歴史」 無理やり化身対決にされた越中詩郎は「犠牲者です!」 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • 山内猛●撮影 photo by Yamauchi Takeshi

――しかも相手は、ケンコバさんが大ファンと公言している越中さんですからね。

「だから余計ですよ。俺が越中さんに惹かれたのは、全日本の若手時代。当時の全日本は若手の試合がテレビで中継されることがほとんどなかったんですが、若手選手のリーグ戦『ルー・テーズ杯』の決勝戦(1983年4月22日、札幌中島体育センター)の三沢光晴さんとの試合は放送されたんです。

 その試合の越中さんを見て、『むちゃくちゃ動くなぁ。全日本に、こんなに素早く動く選手がおるんや』と魅了されたんです。そこからメキシコ修業を経て、紆余曲折の末に全日本を離れて新日本のリングへ。そこからは『越中の試合は誰とやっても間違いない』となり、欠かせない選手になったんですよ。

 それなのに、あの『サムライ・シロー』で一気に評判を落としてしまった......。無理やり『サムライ・シロー』でリングに上がった越中さんは犠牲者です! 当時も『何のためにルー・テーズ杯を勝って、メキシコ行って、アジアプロレスを立ち上げたんや! 全日本を離れる時、あいさつをした天龍(源一郎)さんから背広のポケットに突っ込まれた札束はなんだったんや!』って嘆きましたよ」

――お気持ち、お察しいたします。対するグレート・ムタも、日本デビューが大きく期待されていましたね。

「当時は、今のようにインターネットもありませんから、海外マットの情報は専門誌と東スポ頼み。その写真を見る限り、ムタはペイント、ポージングも含めておどろおどろしいキャラクターに変貌を遂げていて、『ザ・グレート・カブキの息子という設定があるらしい』とも知って、『いったい、どう変わったんや』と想像を膨らませていました。

 当時の新日本プロレスは、アントニオ猪木さんの時代から藤波辰爾さん、長州力さんが中心になっていく時期でしたが、ムタに対してもファンは『時代を変えてくれ。風穴を開けてくれ』と期待していたんです。それまでの新日本にはいなかった斬新な存在になると。でも、サムライ・シロー戦では、いつもの『武藤敬司』と変わらないキレイなレスリングだったので......今でも引っかかるものがありますよ」

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