グレート・ムタは引退発表後のアントニオ猪木にも忖度なし。伝説の一戦に藤波辰爾は「武藤には自分より上のレスラーはいないという自負があった」 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【猪木相手にも「自分が一番」】

 そして1994年5月1日、福岡ドームでアントニオ猪木とムタが一騎打ちを行なった。この試合は、近い将来に引退することを表明した猪木の「ファイナルカウントダウン」第一弾として実現。引退の花道の初戦に猪木がムタを指名したことに対して、「あの猪木さんも、ムタを認めたということ。猪木さんの目から見て、当時の新日本で一番注目されるレスラーがムタだと判断したんでしょう」と藤波は振り返った

 その 試合は、猪木がチョークスリーパーからの体固めで勝利。しかし内容は、ムタが猪木の動きに一切合わせず、試合後に猪木が激怒したという"いわくつき"の一戦となった。今となっては伝説となった「猪木vsムタ」について、藤波はこう検証する。

「武藤の性格上、『相手が猪木さんだからこうしなければいけない』といったことは考えていなかったはず。それは僕と対戦した時もそうでしたけど、彼は相手のことを考えず、常に自分が一番。僕は対戦相手によっていろいろ考えるんですが、武藤にはそれがない。だけど、そこに悪気はないんですよ。

 本人から聞いたことはないんですが、おそらく武藤には『自分より上のレスラーはいない』という自負があったんじゃないかと。しかもムタという別人格ができたことで、さらに自由にできた。だからこそ、猪木さんに何もさせないほどの、自分の世界を完成させられたんだと思います。そういう意味でも破格のレスラーですね」

 そして猪木戦の翌年、武藤自身が「ベストバウト」と明かす1995年10・9東京ドームの髙田延彦との一戦で、新たな伝説を作ることになる。

(連載4:武藤敬司が髙田延彦に繰り出したドラゴンスクリュー。それを見た藤波辰爾は「技の入り方が違う」>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。

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