若き武藤敬司が前田日明に「あんたらのプロレスつまらない」→旅館破壊の大乱闘。藤波辰爾が考える、UWFに反抗した理由 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 木村盛綱/アフロ、平工幸雄/アフロ

【武藤のプロレス哲学と感性】

 さらに藤波は、UWFのプロレスが「つまらない」と言い放った武藤にプロレス哲学を感じていたという。

「武藤は柔道で実績を積んで新日本に入門したから、やろうと思えばUWFの格闘スタイルにも対応できたし、同じようなプロレスはできたはずなんです。だけど、彼はそちらには行かなかった。そうなれば前田の色に染められてしまうし、確固たる"やりたいプロレス"があったんでしょう。あと、『自分が目立つにはどうすればいいのか』という感性は鋭かったですね」

 藤波はそんな武藤の感性を、タッグを組んだ時に実感した。

「タッグを組む時、僕は後輩のレスラーにあまりアドバイスをしないし、後輩のほうは僕に気を遣うものなんです。僕も、猪木さんと組む時はそうでしたから。だけど武藤は違って、すべて自由にやっていた。僕に気なんて遣わなかったんですよ(笑)。それは鋭い感性があったからこそできたこと。逆に僕は武藤と組む時、彼が自由にやっているから、こっちも彼の動きを見て『違う動きをしよう』という刺激になりました」

 その才能をいかんなく発揮していた武藤は、1988年1月に2度目の海外遠征へ。そこでヒールレスラーのグレート・ムタが誕生し、再び新日本に大きな波を起こすことになる。

(第3回:グレート・ムタは引退発表後のアントニオ猪木にも忖度なし。「武藤には自分より上のレスラーはいないという自負があった」>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。

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