ブラウン管のなかの猪木はいつも怒っていた。「力道山への反発心というか、世界的なスケールで何かを成し遂げたかった」

  • 井上崇宏●文 text by Inoue Takahiro
  • photo by Hara Essei

「よくテレビに出てくるじゃないですか、有名人が70歳ぐらいで死んで『まだ若いのに......』って泣きながらコメントしてるヤツ。ウソつけって。別れは悲しいもんだって思い込んでるだけであってね、人が死ぬっていうのはその人の役割が終わったということなんです。これがオレの死生観ですね。だから、できるだけ今日を一生懸命に生きる。それが明日の自分への贈り物。明日になればまたそれが同じことになってという」(2010年夏、アントニオ猪木インタビューより)

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プロレスラーの出発点は砲丸投げ

 9歳。

 アントニオ猪木こと猪木寛至は、小学4年生の頃から次第に身体が大きくなっていった。もともと気弱でおとなしい性格のうえに、同級生よりもだいぶ大きな体格となったことが気恥ずかしくて、人前に立つことが好きではなかった。

「将来、自分はこんなふうになりたい」という夢を抱くこともなく、毎日ぼんやりと空を眺めている少年だったという。

 ある日、女の子がいじめられているところを見かけた。服に食べかすがついていると馬鹿にされ、石を投げつけられていたのだ。それを見た寛至少年は、いじめていた連中をぶっ飛ばす。

「正義心とかそういうのではなく、なにかに対して"燃えるもの"があった」

 その猪木がプロレスに夢中になったのは、それから少し経った頃だった。

「たぶん、小学校の後半ですかね。ちょうどブラウン管(テレビ)が最初に登場した時期で、じいさんもオレもすっかりプロレスに夢中になっていった。なんか力道山という人がプロレスというものでスカッとさせてくれるというか......オレ自身、戦後という意識は低かったから、外国人に対して敵対意識というのはそんなになかったんですけどね。そうじゃなくて、プロレス自体の迫力にやられたね。

 その頃には、自分の体が人より大きいというのはわかっているわけですから。そのあたりから『いつかはプロレスラーになりたいな』という気持ちが芽生えてきました。体がデカいというので相撲部屋からスカウトがきたこともありましたけど、まぁ相撲も好きだったけど、どっちかっていうとプロレスっていう。当時は同級生みんなで相撲をとっていましたけど、とにかくオレは強かったですね。それでほら、オレは砲丸もやるじゃないですか」

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