「選手ではなく、自分を責める」井上康生監督。史上最強の柔道ニッポンに育てあげた (2ページ目)

  • 松瀬 学●文 text by Matsuse Manabu
  • photo by JMPA

 井上監督はそう言って、白い腕時計を少し、持ち上げた。「3・4・6」は、古賀さんの愛称「平成の三四郎」からとられている。この時計の制作を依頼したのは、古賀さんを兄と親っていたバルセロナ五輪78キロ級金メダルの吉田秀彦氏だった。井上監督が説明する。

「今回の時計は、吉田秀彦さん、古賀さんの奥さんにデザインしていただき、選手たちと共に戦ってもらいたいと、寄贈してもらいました。我々は、いろんな方の熱い思いというものを、しっかり継承しながら、戦い続けないといけないと思います」

 手垢のついたセンチメンタルというなかれ。天国の古賀さんに報告するとしたら、と聞けば、井上監督の言葉が滋味を帯びる。

「ありがとうございました。その言葉しかないと思います」

 井上監督は2012年11月、日本男子が初めて金メダルゼロに終わったロンドン五輪の後、就任した。柔道界では暴力指導など相次ぐ不祥事もあり、その威信は地に落ちていた。井上監督は人づくりと信頼構築から始めた。

 井上監督は2000年シドニー五輪100キロ級の金メダリスト。かつて、指導の現場に取材にいくと、「最強だけの柔道家にはなるなよ」と選手たちへよく口にしていた。「最高の柔道家も目指さなければいけない。それが理想なんです。自分自身がまだたどりついてない部分がありますけど、選手と一緒に成長していくことが重要だと思います」と教えてくれたものだ。

 男子監督となって心掛けたのが、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎が掲げた『自他共栄』の精神だった。つまり、互いに信頼し、助け合うことができれば、自分も世界中の人も共に栄えることができるという意味である。

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