父は鹿島などでプレーしたJリーガー 女子バレー賀谷明日光が明かす、Vリーグでの「仕事とプレーの両立」の大変さ

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • 松永光希●撮影 photo by Matsunaga Koki

賀谷明日光インタビュー 前編

 4月上旬、昨シーズンに東京都実業団バレーボール連盟の東京スリジエでプレーしていた賀谷明日光が、Vリーグ参入が内定しているカノアラウレアーズ福岡に入団することが発表された。

 父はかつて、鹿島アントラーズやベガルタ仙台などで活躍したDFの賀谷英司。自らもアスリートの道を歩むことになったが、Vリーグにするまでの経緯、フルタイムで働きながらの練習や試合をすることの難しさを振り返ってもらった。

2シーズンぶりにVリーグでプレーすることになった賀谷2シーズンぶりにVリーグでプレーすることになった賀谷この記事に関連する写真を見る――まず、バレーを始めたきっかけから教えてください。

賀谷 母がバレーボールをやっていたので、その影響でずっと「やりたいな」と思っていて。本当は小学校でもやりたかったんですけど、その時はチームがなかったので、サッカーを6年間、小学5年から2年間はバスケットボールも並行してやっていました。中学ではバレー部があったので、「やっとバレーができる」という感じでしたね。

――Jリーグでも活躍したお父さんの英司さんは、サッカーを続けてほしかったかもしれませんね。

賀谷 どうだったんですかね......6年やっていたので続けてほしい気持ちはあったのかもしれません。でも父は、私が選ぶ道を応援してくれてるので、反対するような気持ちにはなっていなかったと思います。

――ちなみに、お父さんがプレーしていてる姿を見たことはありますか?

賀谷 あんまり記憶にないですね......。たまにテレビで映像が出てきた時に、それは見たと思います。日々の料理が、栄養面を計算されたアスリート用の料理だったことは覚えています。

――小学校を卒業する時点で、身長はどのくらいあったんですか?

賀谷 卒業時で170cm。今が174cmなので、先に身長が伸びきっちゃいました(笑)

――バレー部に入った当初はいかがでしたか?

賀谷 1年時はボール拾いをして、2年生になってからボールプレーをやりました。当時のコーチがすごい熱心に教えてくれる方で。いきなりスパイクを打つこともできましたし、楽しいイメージしかないですね。ポジションは、今と同じミドルブロッカーでした。

――それだけ楽しければ、「高校でもやろう」となりますね。

賀谷 そうですね。中学はそこまで強いチームではありませんでしたが、卒業時にはいくつかの高校に声をかけていただきました。その中で、地元・茨城県の土浦日大高校に行くことにしたんです。私は中学校でバレーを始めた時から、「絶対にVリーガーになる」と決めていたので、春高バレーなどにも出られるような強豪校を選んだという理由もあります。

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