土居美咲が深い傷を負った20歳の冬 日本テニス界から見放され、海外に生きる道を求めた (2ページ目)

  • 内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki

「朝礼などで名前を呼ばれると、『すごーい』とはなるけど、別にみんなわかってないと思うんですね、それが何か」と、土居が少女時代を振り返る。

「しかも、すごく変な言い方になりますが、私は中学校の時、部活に入ってないわけですよ。テニスクラブでやっているので。たとえば学校で、垂れ幕とかありますよね。『〇〇部、祝・関東大会出場』というような。私はその頃、ワールドジュニアのアンダー14で、3番手ながら世界で準優勝したチームの一員だったんですが、それは垂れ幕にはならないんです。

 別にそれが不満とかいうのではまったくなくて、『そっか、部活じゃないからか』と思っていました。だから学校のなかでは、私が何をしているのか、みんな今ひとつわかっていなかったと思います。もちろんみんな、『テニス頑張っているよね』っていう認識はあるし、全校生徒の前で表彰されたこともありますが、だからといって、そんなにチヤホヤされた記憶はないですね」

 土居が中学生時代に経験した「部活動ではないため、世界での活躍が理解されにくい」という構図は、そのまま日本におけるテニスの地位の縮図だと言えるかもしれない。

 一方で土居自身は、ラケットで大海を漕ぐかのように、活躍の場を広げていく。

 土居のポテンシャルを見初めた『自由が丘テニスカレッジ』のコーチに誘われ、東京に移り住んだのは15歳の時。グランドスラムジュニアでも2度のダブルス準優勝の戦績を残し、17歳でプロに転向した。

「通信制の高校を選んだ時点で、ある程度は『プロになる』と決めていたと思います。その時点で、『TEAM自由が丘』という、地元の方たちによる一口サポーターシステムにも支援をいただいていました。

 当時は『高校を卒業してからプロ』というのが王道ルートでしたが、私は学校にも通っているわけではないので、実質プロとあまり変わらない生活をしていました。あとは日本テニス協会へのプロ登録をするかしないかだけだったし、たしかジュニアの大会にも、17歳になる年にはほとんど出てなかったのかな。なので、ほかにプロにならない理由がない、という感じでした」

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