「リーチ マイケル&松島幸太朗が納得できるワールドカップに」元ラグビー日本代表・大西将太郎が語る、フランス大会への期待 (2ページ目)

  • 齋藤龍太郎●文・撮影 text & photo by Saito Ryutaro

──2000年5月のフィジー戦で日本代表デビューし、2003年のワールドカップ出場を目指した大西さんですが、その後は監督の交代、代表の方針変更などもあり、残念ながら出場はなりませんでした。

「2003年オーストラリア大会のメンバーが発表された時はものすごく悔しかったのですが、同年代の選手がワールドカップで活躍している姿を見て『次は絶対に出る』と決意しました。その思いが2007年大会の出場につながりました(結果は0勝3敗1分けで予選プール敗退)。

 ただ、同時に『このまま世界と戦っても......(通用しない)』と思うようになりましたし、一回鼻を折られたことが自分にとって大きかったかなと思います。あらためて自分を見つめ直し、一から鍛え直そうとオーストラリアにラグビー留学しました。

 1年間のうち6か月はオーストラリアで過ごし、6か月は日本で(トップリーグの)シーズンを過ごして、次の6か月はまたオーストラリアへ、というサイクルで海外のラグビーと触れ合ったことが、僕のラグビー人生最大のターニングポイントになったと思っています」

──さらなる成長を遂げた大西さんはその後代表に返り咲き、2007年大会の9か月前に就任した「JK」ことジョン・カーワンHC(ヘッドコーチ)からも代表に呼ばれました。

「僕はどのHCの下でも、HCがどういうラグビーをしたくて、どういった選手を求めているか、ということを常に考えていました。ですからJKが求める選手になる必要がありましたし、何を要求されているのかを理解し、それを意識しながらプレーしていました」

──晴れて大西さんは2007年大会に出場することになるわけですが、日本代表は試合日程の問題で2チーム制を敷いて大会に臨むことになりました。

「試合間隔が短かったので(初戦の)オーストラリア戦組、(2戦目の)フィジー戦組に分かれて大会に臨みました。当時は各方面から否定的な指摘を受けましたが、両組ともそれぞれに与えられた目標に全員が向かっていたと思います。

 2チーム制が正しい選択かどうかはあくまで結果次第でしたから、(自身は出場しなかった)オーストラリア戦(●3-91)のメンバーの頑張りに報いるためにも、フィジー戦に勝つことだけを考えていました。

 (4戦目の)カナダ戦とどちらが印象的だったかと聞かれたら、僕はこのフィジー戦と答えています。自分にとって初めてのワールドカップの試合でしたし、会場での『ジャポン』コールは今でも忘れられません」

──同期のLO(ロック)大野均選手もFWの一員として奮闘しました。

「キャプテンのNo.8(ナンバーエイト)箕内拓郎さんが試合後に(無作為抽出で行なわれる)ドーピング検査を受けることになり記者会見に出られなくなったので、代わりに(大野)均ちゃんが出るはずだったのですが、この1試合で均ちゃんは体重が7キロ減ってしまい、点滴を受けるため会見に出られなくなったんです。それで僕が出ることになったんですが、実は僕も6キロ減っていたんですよね(笑)」

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