エリート街道じゃないバスケ日本代表・原修太 社会貢献と「40歳まで千葉で」の思い (3ページ目)

  • 取材・文●永塚和志 text by Nagatsuka Kaz
  • 写真●村上庄吾 photo by Murakami Shogo

【バスケは高校でやめようと思っていた】

――エリート街道を歩いてきたわけではないなかでプロ選手となり、ジェッツでは優勝、そして日本代表にも選ばれる選手となりましたが、これまでのキャリアでの大きな転機にはどのようなものがありますか?

「いくつかあります。まず、高校を決める時です。千葉県内の強い高校から話は来てはいたのですが、練習がきついのが嫌で(苦笑)。ちょうど進路を決める時におじいちゃんが亡くなってしまったのですが、そのおじいちゃんの麻雀仲間が前に市立習志野高校の監督をしていた人で、その人が請われてまた監督として戻ってくるタイミングでもあったんです。

 僕のおじいちゃんも習志野高に足を運んでいたようで、お葬式の時には卒業生の方含めて結構来ていただいたんですね。その印象で『習志野、行ってみるか』みたいな(笑)。だから、1度も練習も見ずに習志野高に入ったんです」

――成り行きに身を任せて、ですね。

「高校では県でベスト16とか32が最高だったと思いますが、バスケはそこでやめようと思っていたんです。結構、周りの意見に呑まれるタイプだったので、卒業後に柔道整復師やトレーナーの道に進む友人が多かったこともあって、僕もそういう方向へ行こうかなと考えていたら、高校最後の試合で、相手チームの監督から『バスケを続けたほうがいいよ。でも2部か3部の学校にしたほうがいい』と言われて、2部の大学を調べました。

 いろんな大学が高校に学校説明会で来てくれたんですけど、ちょうど体育館の入り口に国士舘の方がいて。『そういえば2部の大学だな』と。で、指定校推薦で行く道があったので、国士舘に決めたんです。

 それから国士舘の試合を見に行って監督さんに挨拶に行くと、『普通にやっていれば4年生でAチームに上げてあげるから最初はBチームで』と言われて。でも『まあ別にいいか』と。そこも転機ですね(笑)」

――プロ選手になるような道を辿ってきたわけではないですね(笑)。

「当時、福岡第一高校の試合を見に行ったことはありましたが、全中でトップレベルの活躍をしていた同級生の富樫勇樹すら当時は知らなかったほどです。それくらいバスケ(の情勢)に興味がなかった。大学に入ってやっといろんな人のことを知り始めました。比江島(慎/現・宇都宮ブレックス)さんとかも、大学の最後のインカレで見て『この人、うめえ』って思いながら知ったくらいで」

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