【競馬】生産者が異論を唱えたダービー馬の無謀な挑戦 (3ページ目)

  • 河合力●文 text by Kawai Chikara
  • photo by Getty Images

 レースを終えたディープブリランテは、翌週には日本へ帰国。休養に入って、秋のビッグレースで復帰する運びとなった。このとき、復帰戦のターゲットとして浮上したGIはふたつ。同世代の三冠クラシック最終戦となる菊花賞(京都・芝3000m)と、古馬と対決して現役最強馬を争う天皇賞・秋(東京・芝2000m)である。

「私は、菊花賞ではなく天皇賞・秋を選んでほしいと願っていました。3000mという長丁場は、やはりブリランテには合わないと思いましたから。キングジョージのときと同様で、ゆったりとしたペースの中でリラックスするのは難しく、きっとスタミナを消耗してしまうはずです」

 スウィーニィ氏は、距離の面から、天皇賞・秋に進むことを望んでいた。その場合は、年上である古馬と戦うことになるが、ディープブリランテなら十分に通用すると見ていた。だが、陣営は菊花賞を選択。三冠最後の舞台へと向かうことになった。

 そして、菊花賞を4日後に控えた10月17日。最終追い切りで、ディープブリランテは素晴らしい動きを披露した。体調面の不安は何もないように思われた。だが、その翌朝、右前脚に脚部不安を発生。診察の結果、競走馬の「不治の病」と呼ばれている屈腱炎(くっけんえん/脚部、主に前肢に発生する病。完治しにくい病気で、再発しやすい)が判明した。

 一時は復帰を目指して休養に入ることも検討されたが、陣営は最終的に引退を決断。10月26日付で競走馬登録が抹消され、ディープブリランテの競走生活は幕を閉じた。

 ディープブリランテの突然の引退に、スウィーニィ氏も「とても残念でした」と肩を落とした。それでも、同馬は社台スタリオンステーションで種牡馬となり、第二の人生を歩むこととなった。次回は、種牡馬としてのディープブリランテの可能性を追っていく。

(つづく)

  ハリー・スウィーニィ

1961年、アイルランド生まれ。獣医師としてヨーロッパの牧場や厩舎で働くと、1990年に来日。『大樹ファーム』の場長、『待兼牧場』の総支配人を歴任。その後、2001年に『パカパカファーム』を設立。2012年には生産馬のディープブリランテが日本ダービーを制した。
『パカパカファーム』facebook>

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