【競馬】アイルランド人だからこそ見出せた、新たな競馬ビジネス (3ページ目)

  • 河合 力●文 text&photo by Kawai Chikara

 ダンシングブレーヴは、1986年の凱旋門賞を制し、今なお「史上最強馬」とも評されるスーパースター。もちろん引退時には種牡馬として大いに期待され、ヨーロッパでの第二の人生をスタートさせた。

 だが、種牡馬1年目の1987年に不治の奇病とされる「マリー病(別名『肥大性肺骨種』と言われる、家畜の病気の一種)」にかかり、さらに産駒の成績も芳しくなかったため、種牡馬入りからわずか4年で、このスーパースターは現地のホースマンに見限られる。その結果、低額で日本に輸入されることとなった。

 すると、日本に来た直後から、ダンシングブレーヴがヨーロッパに残してきた子どもたちが次々に活躍。また、ダンシングブレーヴの抱えるマリー病が産駒に大きな影響を及ぼさないことがわかると、現地では一転してスーパースターの早過ぎる輸出を「大きな失敗」ととらえるようになったのである。このような背景から「ダンシングブレーヴの血を引く繁殖牝馬を欲しい」という、ヨーロッパのホースマンは当時非常に多かったのだ。

 そこで、スウィーニィ氏はこのニーズに着目し、ダンシングブレーヴの繁殖牝馬を日本で買ってヨーロッパで売るという形をとった。

「ダンシングブレーヴを父に持つ繁殖牝馬は、日本では“まずまず”の血統という評価で止まることがほとんどですが、ヨーロッパではとても希少価値の高い存在になるんです。このような、1頭のサラブレッドに対して生まれる日本と海外での価値の差を計算しながら、私は繁殖牝馬を輸出し続けたのです」

 スウィーニィ氏は1998年からの約3年間、前述したような形で繁殖牝馬の輸出・販売ビジネスを独自で展開した。

 このビジネスを行ううえでは、日本よりも海外でニーズの高い繁殖牝馬を見抜く力ももちろん必要だが、同時に、彼が来日前から持っていたアメリカやヨーロッパの牧場やバイヤーとのコネクションも大いに役立ったに違いない。

 そのほか、破格の値段で日本に輸入されたアメリカの繁殖牝馬メイプルジンスキー(現役時代、アメリカのGIレースを2勝した名牝。来日前はアメリカのGIを9勝したスカイビューティなどを生んだが、日本では活躍馬を輩出できなかった)など、日本での繁殖成績が低迷していた世界的良血馬の再輸出なども行なったという。

 このように、繁殖牝馬をメインとしたビジネスで成功を収めたスウィーニィ氏だが、実はさらにもうひとつ、同時期に新たな競馬ビジネスを実践していた。その手法も、当時の日本では珍しく、画期的なものだったと言える。そこには、繁殖牝馬ビジネスと同様に、日本競馬を深く理解したスウィーニィ氏だからこそのアイデアがあった。次回は、そのビジネスについて紹介する。

(つづく)

  ハリー・スウィーニィ
1961年、アイルランド生まれ。獣医師としてヨーロッパの牧場や厩舎で働くと、1990年に来日。『大樹ファーム』の場長、『待兼牧場』の総支配人を歴任。その後、2001年に『パカパカファーム』を設立。2012年には生産馬のディープブリランテが日本ダービーを制した。

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