オッツェがわずか1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなかった「またドイツで活躍できると思ってしまって...」 (3ページ目)

  • 了戒美子●取材・文 text by Ryokai Yoshiko

【引退の決断は難しいものではなかった】

 しかし、さすがにもう引退かと思われた矢先、ハンブルガーSVでの2シーズン目のウィンターブレイクにもう一度、オッツェは日本に行くことになる。1995年末に再びリティ(リトバルスキー)から誘いを受け、今度は当時JFLのブランメル仙台に赴いた。

「今度はJFLですけど、妻を説得して行くことにしました。僕はアキレス腱のケガを抱えていたのですけど、結局、最後は体が持たなくて仙台で現役選手を辞めることにしました。

 引退の決断は難しいものではなかったです。強度が高まると、すぐにアキレス腱に痛みが出てしまったので。その後、ドイツに戻ってから小さなクラブでプレーしましたけど、もうプロサッカー選手として動ける状態ではなかったです」

オッツェに現役時代の晩年についても語ってもらった photo by Minegishi Shinjiオッツェに現役時代の晩年についても語ってもらった photo by Minegishi Shinjiこの記事に関連する写真を見る 1997年以降はドイツのアマチュアクラブでプレーを続けながら、2005年からはブレーメンでスカウトの仕事を行なうようになる。

 オッツェがプレーした30年前と比べて、現在の日本サッカーは信じられないほど進化・成長を遂げた。

「もう私たちがプレーした頃とは、まったく比べものにならないですよね。今の日本を見ていると、私たちより進んでいるんじゃないかって思ってしまいます。ドイツ代表は日本代表に2022年カタールワールドカップでも2023年の親善試合でも負けましたし。

 今の日本は『サッカー大国のひとつ』になっていると思います。僕が日本にいた当時は野球と相撲ばっかりに注目が集まっていたのに、すっかり変わりましたよね」

 現在のオッツェはブレーメンのスカウトとして日本を担当しているものの、しばらく足は遠のいているという。

「また日本に行きたいですね。コロナの前に行ったのが最後で、そこから行けてないのですよ。もしかしたら、いい日本人選手をまた見つけられるかもしれません」

 半分真顔、半分冗談といった風情で、にっこりと笑いながらそう言った。

(後編につづく)

◆あの人は今「オッツェ」後編>>敏腕スカウトが獲得したかったのは「遠藤航」

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【profile】
フランク・オルデネビッツ(オッツェ)
1965年3月25日生まれ、ドイツ・ドルフマルク出身。ブレーメン時代は奥寺康彦と一緒にプレーし、1987-88シーズンにはブンデスリーガ制覇に貢献した。1993年のセカンドステージよりジェフユナイテッド市原に加入し、1994シーズンは30ゴールを記録して得点王を獲得。翌年は家庭の事情でドイツに戻るも、1996年には旧JFLのブランメル仙台でもプレーして20ゴールをマークする。西ドイツ代表として2試合出場。ポジション=FW。身長180cm。

プロフィール

  • 了戒美子

    了戒美子 (りょうかい・よしこ)

    1975年生まれ、埼玉県出身。2001年サッカー取材を開始し、サッカーW杯は南アフリカ大会から、夏季五輪は北京大会から現地取材。現在はドイツを拠点に、日本人選手を中心に欧州サッカーを取材中。著書『内田篤人 悲痛と希望の3144日』(講談社)。

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