助っ人Jリーガー・あの人は今〜1994年の得点王「オッツェ」に会いにブレーメンまで行ってきた (3ページ目)

  • 了戒美子●取材・文 text by Ryokai Yoshiko

【日本の若い選手たちに伝える役割もあった】

 Jリーグは開幕初年度で、まさに「ここから始まっていく」という時期。加入するジェフも、決してビッグクラブではなかった。ドイツ1部のケルンやブレーメンを経て日本に来たオッツェにとって、環境の違いは新鮮だった。

「僕とリティは最初、ヒルトンホテルに住んでいました。そこからクルマで15分くらいのところにジェフの練習場がありましたね。でも、練習場はピッチが1面あっただけでした。ピッチの横に更衣室があって、そこで着替えましたね。クラブハウスのようなものもなかったです」

城彰二(左)とオッツェ(右)はジェフで一緒にプレーした photo by Getty Images城彰二(左)とオッツェ(右)はジェフで一緒にプレーした photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る ジェフのスタジアムは当時、市原の臨海にあった。

「古いスタジアムでした。驚いたというか、印象的だったのは、試合時の観客の半数以上......たぶん60パーセントくらいが女性だったんですよね。彼女たちがサッカーのことをわかっていたのかどうか、僕にはわからなかったですね。もしかしたら、ちょっとしたイベントみたいな感じだったのかもしれません」 

 オッツェの生活は日々、新鮮な驚きにあふれていた。

「僕にとって、すべてが新しいことばかり。何にでも興味を持ちました。日本での日々は、ネガティブなサプライズではなかったですよ」

 何よりオッツェは、外国人助っ人選手としての使命を肝に命じていた。

「Jリーグは始まったばかり。我々みたいに年齢のいった経験豊富な選手を連れてきて、リーグ全体を盛り上げようという機運がありました。僕たちにとっては、日本の若い選手たちに何かを伝える役割もあったと思います」

 当時のヨーロッパで、Jリーグはどこまで知られていたのか。

「欧州国内で真剣にJリーグに興味を持っていた人は、あまりいなかったと思います。ドイツ人がプレーしているから報道はあったと思いますけど、まだ生まれたばかりのリーグでしたので」

 リティの影響でオッツェがジェフに加入したように、ほかのチームも世界的なプレーヤーを集めようと躍起になっていた。彼らの知名度や集客力が獲得の理由のひとつだが、それ以上に世界の経験を若い日本人選手たちに伝えることが必要だったからだ。

 また、助っ人としてやってくる外国人選手にとっても、日本での経験はキャリアにおいて見すごすことのできない価値を持つことにもなった。オッツェが現在ブレーメンで日本担当スカウトとして活躍しているのもこの時の経験がつながっているし、のちに日本代表監督をジーコが務めたのは、その最たる例と言えよう。

(中編につづく)

◆あの人は今「オッツェ」中編>>1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなかった

◆あの人は今「オッツェ」今昔フォトギャラリー>>


【profile】
フランク・オルデネビッツ(オッツェ)
1965年3月25日生まれ、ドイツ・ドルフマルク出身。ブレーメン時代は奥寺康彦と一緒にプレーし、1987-88シーズンにはブンデスリーガ制覇に貢献した。1993年のセカンドステージよりジェフユナイテッド市原に加入し、1994シーズンは30ゴールを記録して得点王を獲得。翌年は家庭の事情でドイツに戻るも、1996年には旧JFLのブランメル仙台でもプレーして20ゴールをマークする。西ドイツ代表として2試合出場。ポジション=FW。身長180cm。

プロフィール

  • 了戒美子

    了戒美子 (りょうかい・よしこ)

    1975年生まれ、埼玉県出身。2001年サッカー取材を開始し、サッカーW杯は南アフリカ大会から、夏季五輪は北京大会から現地取材。現在はドイツを拠点に、日本人選手を中心に欧州サッカーを取材中。著書『内田篤人 悲痛と希望の3144日』(講談社)。

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