田中順也のポルトガル時代「こんなに運がいいことがあるのか」→「お荷物みたいに扱われ」→悩んだ末に「あの時、夢を諦めた」 (3ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki

 スポルティングと結んだ5年契約は、まだ1年半を終えたばかり。この監督の下で耐え忍ぶのか。それとも、移籍するのか――。田中は否応なしに決断を迫られていた。

「ポルトガル国内の別のチームの(移籍の)話もあったし、他にもドイツ2部とかの話もありました。でも、どこへ行っても環境的には結構過酷で......。やっぱりJリーグって世界的に見ても環境面は整っているので、そういう条件の悪いところに家族を連れていってプレーするのは難しいなっていう気持ちはありました」

 田中にとっても、妻にとっても、リスボンでの生活は快適そのものだった。夫妻には「ちょうど(スポルティングへの)移籍手続きが完了した頃に生まれた」小さな娘もいたが、日々の暮らしには何の問題もなかった。

「だから、リスボン以外の都市に行くっていうのはちょっと考えにくかったんです。もしも独身だったら、いろんなところへ行っていたかもしれないですけどね。今は(日本人選手が)みんな海外で家庭を持って生活して、サッカーでも活躍している。すごいなって思います」

 できることならスポルティングで続けたいけれど、このままでは蚊帳の外。はたして田中が出した結論は、「日本に帰ろう」だった。「まだ28歳だし、もうひと花咲かせたい」と、Jリーグ復帰を決めた。

「あの時考えていたのは、日本でもう一回活躍しようということだけでした。(期限付き移籍での日本復帰ではあったが)またスポルティングに戻ってくるっていう選択肢は、もうあの時点でなかったですね」

 これまでの現役生活を振り返り、「あそこはすごく難しい判断で、かなり迷いました」と田中。複雑な表情を浮かべて、こう続ける。

「だからあの時、夢をひとつ諦めたんです。チャンピオンズリーグに出たいという夢を」

 その言葉を裏づけるように、現役生活でやり残したことはないのか? と田中に尋ねた時、間髪入れずに返ってきた答えもまた「チャンピオンズリーグ出場」だった。

「1年目の時にチャンピオンズリーグの試合にも帯同していて、でも、いつもベンチ外なんですよ。20人くらい連れていってくれて、2人だけベンチ外になるんですけど、僕は常にベンチ外。どこかで出たいと思ってやっていたけど、結局、出られなかった。(スタンドで)アンセムだけ聞いて帰ってきました(苦笑)」

 2014年10月にはチャンピオンズリーグのグループステージで、同学年の内田篤人を擁するシャルケ(ドイツ)との対戦も経験した。

「その試合にも僕は帯同していて、ウッチーは試合に出て、シャルケが勝って、『すごいな』って思うと同時に、『自分も出たかったな』『日本人対決したかったな』って。ウッチーとユニフォーム交換もしたんですけど、その時はいろんな感情がありました」

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