「なんだ、この世界は?」非エリートだった田中順也が振り返る自らのターニングポイント J2優勝→即J1優勝で「ガラッと変わった」 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki

「その時、レイソルの調子が悪かった(J2降格危機にあった)んですけど、チームを立て直すために大学生を抜擢するなんて日本人の監督なら絶対にしないのに、ネルシーニョにはその固定観念みたいなものがなく、(特別指定の大学生でも)ピッチでよければ使うって感じでした。結局、レイソルはその年、(J2へ)降格しちゃうんですけど、僕にとってはあそこが完全にターニングポイントです」

 当時の田中は目立った実績もなく、大きな注目を集めていたわけでもなかったが、「大学生の時、自分は『すごい選手になる! 海外に行く! 世界のタナカになる!』って、友だちにふざけて言ってました(笑)。よくそんな大それたことを言ってたなと思うんですけど、でも、自分では自信があったんです」。

 正式なプロ入りを前にJ1のピッチに立ったことで、漠とした自信が確たるものへと変化していったことは想像に難くない。

「(ターニングポイントの)ふたつ目は、(プロ)1年目をJ2からやれたってことですね。その時にレアンドロ(・ドミンゲス)がいて、J2で圧倒的に優勝できたことです」

 すでに前年、特別指定選手としては十分すぎるほどの出場機会を得ていたとはいえ、もしも柏がJ1に残留していれば、新人の田中にそれほど多くの出番が回ってくることはなかった、あるいは、出場できてもJ1の高いレベルに苦しんでいたかもしれない。

 だが、ネルシーニョはJ2でのシーズンを通じて、J1で戦うためのチームのベースを構築。その過程において、大卒ルーキーも着々と自身の地位を確立し、そのうえで晴れてJ1挑戦と、段階的にステップアップすることができたのである。

「そして3つ目は、J1優勝。その後もポルトガルへ移籍したり、いろんなことがありましたけど、とにかくレイソルで最初に強化指定で出られたことと、J2で優勝してJ1でも優勝したことで、僕の人生はもう完全にガラッと変わりました」

「世界のタナカになる!」と豪語していた大学生も、その実、「育成年代で全国優勝したこともないし、大学リーグも下位(大学4年時は関東2部)だったし、勝ったことがないので勝ち方がわからなかった」。

 ところが、「とりあえず、監督と先輩の言うことに必死に応えてプレーしていたら、チーム(柏)が優勝しちゃった」のである。

「僕にしてみれば、『なんだ、この世界は?』ですよ(笑)。たまたま僕がレイソルに入った時に、勝てる監督が来て、勝てるメンバーがそろって、そのなかのひとつのピースとして、僕は本当にうまくハマったんです」

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