浦和レッズの熱烈なサポーター村井満がジーコに質問「鹿島とのタイトル数の差は何?」 (3ページ目)

  • 宇都宮徹壱●司会・文 host & text by Utsunomiya Tetsuichi

── それこそ「ジーコイズム」とか「ジーコスピリッツ」ではないでしょうか?

村井 今もクラブハウスに残っている、ホワイトボードがすべてを表しているように感じますよね。それぐらいジーコさんは、鹿島アントラーズというクラブに多くのものを残し、ライバルクラブもまた「打倒・鹿島」に燃える。そのことで、Jリーグ全体にもいい影響を与えてきたんだと思います。

【もしも本田技研が埼玉県でプロ化していたら?】

── ジーコさんが1991年に来日した時、住友金属はJSL(日本サッカーリーグ)2部でした。

ジーコ あの当時、Jリーグ入りが決まっていたクラブは、どんどん選手もアマチュアからプロに切り替わっていた時期でした。住友金属にもプロはいましたが、社員選手も半分近くいて、彼らは練習に加わるのは仕事が終わってから。当時、プロ選手と社員選手との間には、温度差がありました。プロを中心としたチームに切り替えたのは、後期リーグに入ってからでしたね。

── 大野俊三、賀谷英司、石井正忠、真中靖夫といった黎明期の選手たちも、もともとは社員選手からプロになっていきましたよね?

ジーコ そうです。当時はまだ、外国籍選手はふたりしか出場できなかったので、私とミルトンがフル稼働していたんです。私は38歳から39歳だったんですが、まだまだ動けたので22試合で21ゴールを決めて得点王にもなりました。

 ただし、中盤の選手がどうしても足りなくて、そこは社員選手の力を借りるしかなかった。そのために会社と掛け合って、彼らがトレーニングに集中できるように仕事の負担も減らしてもらいました。

村井 黒崎久志や長谷川祥之や本田泰人といった、本田技研でプレーしていた選手たちが移籍してくるのも、この頃ですよね?

ジーコ 鹿島の初代監督になる宮本征勝さんもそうですね。本田技研がJリーグには参加しないということで、本田技研のプロ志向の選手たちが加わったのです。私はブラジルからアルシンドとサントスを連れてきました。

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