小野伸二引退表明で思い起こす3試合 日本サッカー史上、最も技術力の高い選手だった (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●撮影 photo by Yamazoe Toshio

【最年少でW杯に出場したが...】
 
 実際、18歳と272日で小野はW杯のピッチに立った。いまなお更新されていない最年少記録である。だがそれは、ほぼ脱落が決まっていた3戦目のジャマイカ戦で、しかも出場時間はわずか15分。文字どおり「出ただけ」だった。小野の魅力が晴れの舞台で全開になることはなかった。

 岡田武史監督は在任中、数々の成功と失敗を残しているが、フランスW杯で小野を15分しか出さなかったことは大きな失敗のひとつと言って過言ではない。敗戦を恐れる気持ちが強すぎて起用を躊躇った。だが日本の成績は3連敗。小野を使いこなすことも成績を挙げることもできなかった。

 だが小野にとって、はたまた日本サッカー界にとって、はるかに不幸な出来事が起きたのは、続くトルシエジャパン時代だった。

 2001-02シーズン、浦和からフェイエノールトに移籍。小野はスタメン出場を果たしていた。オランダの評論家、記者たちはなにより、左ウイングバックという、2002年の日韓共催W杯で小野が務めたポジションに納得がいかない様子だった。「槍的な要素がまったくない選手をあのポジションで使うとは」と言うのだ。最終メンバーから落選した中村俊輔も同じポジションだった。

フェイエノールト時代の小野伸二。2002年、UEFA杯決勝でドルトムントを破り優勝したフェイエノールト時代の小野伸二。2002年、UEFA杯決勝でドルトムントを破り優勝したこの記事に関連する写真を見る フィリップ・トルシエに、なぜゲームメーカータイプの選手をそこで使うのかと筆者が尋ねれば「バックラインに球出しの能力のある選手がいないので、ウイングバックからボールをつないでいきたいからだ」と、答えた。だが、それをオランダの評論家たちに伝えれば、うーんと押し黙ったまま、首をひねったものだ。

 しかし、それなどは些細な問題に過ぎなかった。1999年7月4日。小野を語る時、この日に見舞われた重大事故を外すことはできない。シドニー五輪アジア地区1次予選対フィリピン戦で、左膝に悪質なタックルを受けた一件だ。第1戦は13-0だった。日本はすでに最終予選進出を決めていて、その最終戦となる消化試合が、フィリピンとの第2戦。ホーム開催のリターンマッチだった。

 なぜそんな試合に小野を出場させたのか。この一件に関わった人は誰なのか。小野にきちんと謝罪したのだろうか。

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