高校サッカーの名将・小嶺忠敏さん逝去から1年。教え子2人が監督として全国の舞台へ。「尊敬しかない」「運命を感じる」

  • 森田将義●文・写真 text&photo by Morita Masayoshi

 今年1月7日、長崎県の国見高校や長崎総合科学大学附属高校の監督を務めた小嶺忠敏さんが、76歳で亡くなった。全国高校サッカー選手権で6回の優勝を果たすなど、成績面での功績と共に、Jリーガーや日本代表も多数輩出してきた。

 指導者として後進の育成に励む教え子も多く、101回目を迎えた今回の高校サッカー選手権大会にも、国見高校の木藤健太監督と帝京第五高校(愛媛県)の植田洋平監督が挑む。2人は、恩師が亡き今何を想うのか。

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小嶺さんの教え子が指導者として選手権へ。国見の木藤健太監督(左)と帝京第五の植田洋平監督(右)小嶺さんの教え子が指導者として選手権へ。国見の木藤健太監督(左)と帝京第五の植田洋平監督(右)この記事に関連する写真を見る

【指導者になってから偉大さに気づいた】

 国見高校監督の木藤健太は、遠征先の鹿児島で恩師である小嶺さんの訃報を耳にした。遠征を止めて葬儀に出ようと考えたが、悩んだ結果、予定していた練習試合を選んだ。「先生に『試合をしろよ』って言われる気がした」と振り返る木藤は、こう続ける。「このチームで選手権に出なければいけないと強く思うようになりました」。

 長崎総合科学大学附属高校で指揮を執るようになってからの小嶺さんは、温厚篤実な印象が強かったが、木藤が国見高校でプレーしていた頃はまだ50代前半で「とても厳しかった」(木藤)。指導者になってからは小嶺さんの偉大さに気づいたが、高校時代の感情は今と違った。

 木藤がいた頃の国見は、縦に速いサッカーを志向。左サイドバックやボランチで起用された木藤はロングボールを蹴り込むのが主な役割だったが、選抜などに呼ばれると国見とは違うサッカーを経験し、戸惑っていた。

「『なんで国見のサッカーとは違うのだろう』と思っていました。自分のやりたいサッカーと、先生が求めるもののギャップがあり、ぶつかることもありました。先生は"なんや、こいつは?"と思っていたはずです」(木藤)

 指導を素直に聞けなかったせいもあり、木藤が高校3年生の時の選手権は2回戦で、松井大輔(現・Y.S.C.C.横浜)や那須大亮(元・ヴィッセル神戸ほか)らを擁した鹿児島実業高校に敗れたのに対し、1個下の大久保嘉人(元・セレッソ大阪ほか)らの代は8年ぶり4度目の選手権優勝を達成。「嘉人たちの代は史上最弱と呼ばれてきたのが悔しくて、『俺らは絶対に勝つぞ』とグッとまとまっていった。全国で勝てなかった僕らの代との差はそこだと思う」(木藤)。

 今となっては当時の未熟さを痛感している。単調に思えた毎日30分近くかけて行なってきたロングキックの練習は効果が大きく、「国見の選手はボールの音が違う」と言われるほど速くて鋭いボールを蹴れるようになった。

 切り替えも口酸っぱく言われてきた部分だ。「攻守の切り替えにはセカンドボールや、ルーズボールが出てくる。バウンドしたボールを自分たちのボールにするのは、きちんとボールを止める技術がいる。相手が獲りに来たところで体を入れて、しっかり自分のボールにするのも技術で、高校時代にかなり身につきました」(木藤)。

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