名古屋在籍中の元ブラジル代表を襲った悲劇。「忘れるためにプレーした」

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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1997年から約1年間、名古屋グランパスでプレーしたバウド photo by Yamazoe Toshio1997年から約1年間、名古屋グランパスでプレーしたバウド photo by Yamazoe Toshio 1986年のメキシコW杯、1990年のイタリアW杯に、ブラジル代表のMFとして出場したバウドは、ベンフィカ、パリ・サンジェルマン(PSG)などを経て、1997年、名古屋グランパスに入団する。

 PSGから復帰したベンフィカの本拠地リスボンから、日本に来た当時を、彼はこう振り返っている。

「とにかく日本に慣れる暇も、自分がどこに住んでいるのかもまだわからないまま、私はすぐに試合に出させられた。チームは一刻も早く私を必要としていて、『Jリーグで良いパフォーマンスを見せる必要がある』と言われた」

 同じ時期、チームにはアレシャンドレ・トーレスもいて、同じブラジル人選手である彼の存在がバウドを助けてくれた。彼ら2人はチームの魂だった。

 しかし、日本滞在中に悲しい事件が起こった。1997年、彼がチームとオーストラリアに遠征中、13歳の娘タチエッラが死んだという連絡を受けたのだ。ブラジルでの交通事故だった。

「アレシャンドレ・トーレスが私に、妻から電話だと告げに来た時、彼の顔は青ざめていた。あの時の彼の顔は一生忘れない。電話のあと、私はカバンを掴み空港へと向かった。私の人生の中でも最も難しい時期だった。親が子供を看取るのは、どんなに辛いことなのかを私は知った。それも娘は、病気などではなく、突然の事故だった。私は混乱していた。彼女は私にとっては世界で一番の存在で、なぜ彼女にそんなことが起こってしまったのか理解できなかった。あの時の私のような思いを、誰にもしてほしくないと思う」

 彼はブラジルで葬儀に出席すると、すぐにまた来日してチームに合流し、プレーし続けた。サッカーをすることが、たとえ一時的なものであっても「悲しみから救ってくれた」と、後にバウドは語っている。

「少なくともサッカーをしていれば、その間だけでも私は別の世界に行けた。私は常にプレーに100%集中をする。一度も力の出し惜しみをしたことはなく、私のすべてを捧げてきた。名古屋でも私のすべてを出した。そしてそれが唯一、悲しみから遠ざかれる方法でもあった」

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