【育将・今西和男】オフトが振り返る。「あの試合、イマニシがいてくれたら」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko photo by Kyodo News

 成果は上がり、サッカーの質もそれに伴って変わっていった。1985年にJSL1部に早々に復帰、天皇杯もベスト4に進出した。マツダはそれまでの社風として「スポーツ選手は文武両道を目指す者として社業もこなすべきである。サッカーだけやっているのは許されない」という空気が残っていた。だが、オフトはプロフェッショナルの監督としてこういうことを言った。

「サッカーしかしないのは不勉強と言われるかもしれない。しかし、サッカーを死にもの狂いで追究することで学べることもたくさんある。しかも、それは自分だけではなく、チームメイトと共に学ぶことができる」

 1986年には1部で7位と健闘、1987年には天皇杯で準優勝する。最後はケガ人に泣いて2部に落ちたが、オフトは確実にマツダを変えた。契約満了の形でオランダに帰る際、オフトは「このチームの中に将来、名監督になれる人物が3人いる」と言って、日本を離れた。予言は当たる。可能性のある人物はみな、後に指導者として事を成し遂げる。サンフレッチェでJリーグ2連覇を達成する森保一、現在バイエルンツネイシで監督を務める前川和也、ヘッドコーチとして森保を支える横内昭展の3人であった。

 今西は次の監督にマンチェスターUのキャプテンを務めたビル・フォルケスを招聘した。オフトはオランダに戻ってユトレヒトのGMになり、日本との縁は切れたかと思われた。しかし、日本サッカー界は放っておかなかった。

 1991年、日本サッカー協会会長の藤田静夫から会社にいる今西の下へ電話がかかってきた。当時、協会は新しい代表監督を探していた。やはり誰もが日本人監督の限界を感じていた。「オフトはどないや」と京都出身の藤田はずばりと聞いてきた。

「オフトは、これはもう日本代表の監督をさせるには最適の器ですよ」今西は率直な評価を伝えた。「たまたまマツダではタレントがいなくて勝てなかったですが、本当にもう目から鱗が落ちる指導者でしたよ」


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