【特別寄稿】FC岐阜・恩田社長、病気公表までの苦悩と葛藤 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text & photo by Kimura Yukihiko

 突然背負わされた宿痾(しゅくあ ※長い間治らない病気、持病)に恩田は驚いた。自分はまだ35歳である。しかし、常人と異なるのは、この男はすぐにチームのことを考えたのである。「自分は岐阜の社長に就任したばかりだ。日常生活には、まださほど支障はない。病気を言ったところで、何か変わることもない。せっかくチームが軌道に乗って、これからというときに新社長がそんな話になって水を差すのは良くない。これを公表するわけにはいかない。何より今ここで、病気を理由に自分が社長を辞めさせられたら、このチームはますます混乱してしまう。このまま仕事を続けよう」と決意した。恩田は結果を家族にだけ告げると、何事もなかったかのようにクラブ経営の激務の中に飛び込んで行った。

「Jリーグクラブの経営は普通の企業では考えられないほどに難しい」と言ったのは二代目チェアマンの鈴木昌(まさる)であった。鹿島アントラーズの社長を務めた鈴木は、クラブが単に利潤を追求するだけでは成立しないことを実感していた。地域密着や文化支援的な施策も常に出していかないと周囲に認知されない。特に地方クラブは、行政や地銀との連携も重要になってくる。恩田は社長就任1か月でその難易度の高さに気がついていた。

「サポーターは、通常のお客様と企業の関係以上のものをクラブに求めて来ている。前職は売り上げが年間200億円以上あったけど、FC岐阜は前年度6億しかない。そのうえ、ガラス張りの経営を求められる。県や市との関係もあるし、文化的な側面から、あまりお金お金と言えない風土の中で、黒字にしないといけない。これは難しい」

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