【特別寄稿】FC岐阜・恩田社長、病気公表までの苦悩と葛藤 (5ページ目)

  • 木村元彦●文 text & photo by Kimura Yukihiko

 今、私は恩田に問う。あなたはこの一年、社員、選手、サポーター、スポンサー、はては取材に訪れる記者に対しても一切、病気については黙っていた。誰にも話さずに病魔と闘い、ようやく今年になって公表するに至ったその決意の経緯を教えてもらえますか。かつて京大時代に合唱部のバリトン歌手としてならした恩田の声は弱々しくなり、ろれつも回らない。それでも毅然とした口調で言った。

「とにかく私のことでチームを動揺させて迷惑をかけたくなかったのです。まずはシーズン終了までは我慢しようとしました。11月23日が最終戦だったので、シーズンオフに言おうかという思いもありましたが、編成の話も立て込んで来た。ここで言ってしまわない方が良いと思ったのです。12月に藤沢さんには伝えました。藤沢さんもびっくりしていました。7年ほど付き合っていますが、あんな顔を見たのは初めてです。私を送り込んだ以上は一切口を出さずに、信頼して任せてくれていました。

 年が明けて世間に向けていつ話すかは、チームに一番迷惑をかけないタイミングを考えました。1月末を選んだのは編成が終わって、選手の動揺も考えてキャンプの前にした方が良いと考えたからです。1月30日に会見でしたが、29日にフロントスタッフ、選手には会見日の練習前に集まってもらいました。フロントは心配してくれていましたが、まさかこんな病気とは思っていませんでした」

――クラブにアイスバケツチャレンジの話が来たときは、どのようなお気持ちでしたか。

「正直、複雑で何とも言えない気持ちでしたね。神様というのはおもしろいことをするなあ、と思いました」

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