中田英寿不在の2000年アジアカップ トルシエが回顧する優勝した日本代表の長所とは (2ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

 ピッチ外もピッチ上と同様に大事だった。

「(大会前の準備を含めて)数週間続く大会を戦い抜くには、ホテルなどのピッチ外の雰囲気や、試合の結果が思わしくなかった時のチームの雰囲気などが、グループが結束を保っていくうえではとても重要だ。数週間をともに過ごすために、私はその点に常に注意を払っていた」

 開催地のレバノンで、トルシエは五輪代表ほどに選手を拘束しなかった。それは、U-23代表とA代表という、年齢差への配慮でもあった。

 それでも、ある練習のあとで怒りに震えた森岡が、スパイクを投げつけてピッチを去る場面もあったように、トルシエは選手やスタッフ、メディアにも刺激を与え続けた。そこまでしなければ大会を勝ちきることができないという思いが彼にはあった。

 現に日本は、中国との準決勝、サウジアラビアとの決勝では、それまでになかった苦戦を強いられた。

「それは、ある意味仕方のないことだ」とトルシエは語っている。

「中国も、サウジアラビアも、W杯本大会出場を果たしたアジアの強豪だ。中国は優れた選手をそろえ、当時の監督はボラ・ミルティノビッチ(メキシコ、コスタリカ、アメリカなどの代表監督を務め、W杯でも実績を残した名将)だった。

 一発勝負で簡単ではないうえ、日本は若いチームだったこともある。そんななか、ディテールが試合の勝敗を決した」

 ミルティノビッチに率いられた中国は、それまでの相手とは異なり、ゾーンディフェンスの守備を敷いてきた。相手の動きに惑わされることなく、ゾーンを守ってブロックを維持し続けた。

 その戦術に日本は苦戦を強いられた。それでも、中村のFK(得点は西澤)が状況を打開した。

「アジアカップを通じて、日本はチーム構築の途上にあった。大会前には誰も、稲本や明神、柳沢の名前を知らなかった。彼らはおしなべて若く、実力を証明すべき立場にあった。

 中国戦は確かに苦戦の末の勝利ではあったが、だからこそ日本の真の姿を見ることができた。1-2とリードされ、同点に追いつかねばならなかった。どんな状況でも諦めずにプレーし続ける姿勢は、チームの性格を形作るうえで重要だった。難しい状況に直面した中国戦で勝利を得たのは本当にすばらしかった」

 決勝の相手となったサウジアラビアは、初戦で日本に敗れたあとに監督のミラン・マチャラを解任。ナーセル・アル=ジョーハルのもと体制を立て直して、準々決勝でクウェート、準決勝では韓国を破り、日本へのリベンジに燃えていた。

 強度の高いプレスで日本の攻撃を封じ込め、ロングボールを浅いDFラインの裏に放り込む戦い方で試合のイニシアチブを握ろうとした。前半に得たPKをサウジアラビアが決めていたら、その後の展開は大きく変わっていたかもしれない。

 だが、ハムザ・ファラタの蹴ったボールはポスト左に外れ、逆に日本は中村のFKを望月重良が決めて先制。後半のサウジアラビアの猛攻もしのいで、1-0で振りきった。

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