トルシエは袂を分かった名波浩をなぜ日本代表に再招集したのか「私は名前で選手を選ばない」 (3ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

 私は、彼のそうした状況をよく知っていた。招集を決めた時、彼が自身の豊富な経験と優れた資質をチームにもたらしてくれることもわかっていた」

 コパ・アメリカとは異なり、トルシエが起用した名波のポジションはボランチだった。そして、中田英不在のトップ下には、セレッソ大阪で西澤明訓とともに2トップを務めていた森島寛晃を置いた。

「私は名前で選手を選ばない。過去の実績でも選ばない。その時の現実が常に選考の基準だ。

 また、重要なのは相手との力関係であり、その状況に応じて選手を選ぶ。(当時)『60人のグループが日本代表だ』と私が述べ続けたのは、戦術的な課題を克服できる選手が60人いるということで、実際に当時の日本には、状況に対処できる選手がそれだけいた。

 今日もそうだが、人々が注目するのはスタメンに名を連ねた11人の選手たちだ。しかし監督は、選手登録された26人(2000年当時は22人)のなかから選手を選べることを忘れてはならない。そのメカニズムが働いたから、森島は中田英の代わりにプレーした。

 名波は稲本同様に、ボランチとしてプレーすることが可能だった。チームには複数のポジションでプレー可能な選手が常に存在する」

 加えてトルシエには、「チームにスターはいらない。チームこそがスターである」という持論があった。2000年アジアカップは、まさにそれを実証した大会だった。

「中田英はスターだが、アジアカップは不参加だった。スターがいないうえに、中村や小野伸二、稲本など、若く才能にあふれた選手たちがいた。選手は皆、コレクティブにチームに貢献し、試合をスタートする選手が誰であれ、目的はチームの勝利だった。

 日本代表のクオリティは、私の哲学とフラット3をベースに据えたコレクティブな質の高さだった。選手はコレクティブなプロセスによく適応し、練習を重ねた。勝利を得たのはそれだけの仕事をしたからであり、独自のベースを構築できたからだ。チームに偉大な選手はいなかったが、チーム自体は偉大なチームだった」

(文中敬称略/つづく)

フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。

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