加地亮のサッカー人生を狂わせた1プレー「あれは酷かった」 シュバインシュタイガーだけは「絶対に忘れへん」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun
  • photo by AFLO

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 スタメンで出ている選手は、自分のための練習がなかなかできないので、その間、クロスの精度やフィジカルなどの練習をやって、(自らを)追い込んで(試合に出た時の)準備をしていく。それが、すごく楽しかった」

 全体の練習をこなしながら、なおかつ個人練習で足りないものを強化した。そこまで追い込んで練習していたのは、加地が考える理想のサイドバック像があったからでもある。

「自分には、サイドバックの理想形があったんですよ。3つの必要な要素があって、ひとつは90分間、アップ&ダウンできる超人的なスタミナ。ふたつ目は1対1の強さ。3つ目がクロスの精度。ブラジル代表のロベルト・カルロスやカフーが目標だったんです」

 そうして、地道にコツコツと練習していた加地のプレーを、日韓W杯後に日本代表監督に就任し、味の素スタジアムに視察に来ていたジーコがたまたま見た。ジーコはすぐに加地を代表に招集。アフリカ・ヨーロッパ遠征の初戦、チュニジア戦(10月8日)でスタメンに抜擢した。

 代表初招集で、いきなりスタメン出場。加えてアウェー戦での起用とあって、加地は「心臓がバクバクした」という。

「緊張しましたね。すべてが"初"だったし、中盤は欧州組のヒデさん(中田英寿)、俊さん(中村俊輔)、そしてシンジ(小野)とイナ(稲本)の『黄金のカルテット』と呼ばれた4人でしたしね。

 正直、走った記憶しかない。タイミングよく前に走って、一生懸命(守備へ)戻る。単純なことでしたけど、自分の仕事はできたかな、と。しかも、1-0で勝ったんで『これは次もあるかな』って思いました」

 その後、加地は代表の常連メンバーとなった。4バックでは山田暢久、3バックでは西紀寛とポジション争いを演じ、2004年5月末のイギリス遠征からはレギュラーとして定着した。

 ただ、2004年のアジアカップ中国大会で優勝し、W杯最終予選へと向かっていくなかで、加地には不安に思っていることがあった。守備について、だ。

 ジーコは攻撃面では指示を出すが、守備についてはほぼ選手に任せる感じだった。そのため、守備のやり方においては、攻撃の選手と守備の選手との間で、常に意見の食い違いがあった。そして、それがまとまることはなく、ずっと先送りになっていた。

 その結果、2005年5月のキリンカップでは、ペルー(0-1)、UAE(0-1)相手に連敗。危機的な状況に陥っていた。

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